2012年7月31日火曜日

おおかみこどもの雨と雪

先日,ちょっとしたノリと勢いで細田守監督の「おおかみこどもの雨と雪」を見てきました.この映画については,基本的にいい前評判を聞いていなかったことや,「サマーウォーズ」の肩すかしっぷりなどから細田監督に基本的に期待をしていなかったことなどから,そもそも,面白い映画を見られるとは思っていませんでした.実際,見終わったいま,この映画が面白かったかどうかを問われると「よくわからない……」としか答えようがありません.

以下,ネタバレを含む感想を書いていきますが,基本的に,僕が「よくわからない……」という感想に至った過程なので,ふわふわした「よくわからない」ものになっていると思います.この感想を読んで僕が感じたような「わからなさ」を追体験して頂くのも,一興かも知れませんが,この映画に関しては「実際に見てよくわからなかった」という体験をお勧めしたいところです(自分が感心したり面白いと感じたりしたものは勧めることはよくありますが,自分がよくわからなかったものを勧めるのは変かも知れませんが……).

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(以下,ネタバレあり.稀に見る酷評なので,この作品が「好き」と思っている人は読まないことをお勧めします)

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この作品に対する感想は,基本的に男なのか女なのか,子供がいるのかいないのか,(少なくとも結婚を考えるレベルの)人生をかけた恋愛経験があるのかないのか,大事な人との離別・死別経験があるのかないのか……という,個々の人生経験に応じて感想が変わる映画であるような気がします(し,実際,多くのレヴュウでもそのように言及されているようです).そして,僕は,この映画が基本的に(上記のような)人生経験をほぼ持たない男にしか受け入れられないのではないか,と思っています.ようは,童貞で夢見がちなピュアな青少年だけが,あの映画を楽しめるのではないか,と(ただし,いわゆるオタクは色々な意味でこの映画は楽しめなかったと思います).

このような人生経験に基づくと,男で,子育て経験がなく,オタクでもないピュアな青少年である僕は,比較的,この映画を楽しめる立場であったのではないかと思います(まぁ,重めの恋愛経験,離別・死別に関しては経験値がついていますが……).……というわけで,以下の感想は,こういう前提条件の下の感想であることを明記しておきます.

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この映画の全体に通底していて,そして,ずっと気になり続けたのは「リアリティーのなさ」と「設定している世界観の不安定さ」です.

前者は,この作品にとって(また,この監督の創作活動そのものにとって),特に致命的なものです.基本的に,この作品では,すべてのシーンにリアリズムが感じられませんでした.それが,この映画の全体的な印象です.

このようなリアリズムを欠くシーンには枚挙がありませんが,「一橋大学に入って奨学金とバイトで学生生活を送っている女学生が,何処の馬の骨ともわからない男と童貞の妄想丸出しのような恋愛をする」,「いかにも清純な設定の主人公が,急に脳機能がぶっ壊れたかのようなビッチ恋愛脳化する」,「狼男であることの告白という恋愛パート最大の山場の直後に,特に,葛藤などもなく即セックス」,「人間の姿になれるのに何故か獣姦」,「子供までできているのに 2 人の親族が全く出てこない.世界は 2 人でできているw」,「お父さんが死んだところ.都内でニホンオオカミ(野生動物)が死んでいるのに保健所ではなく清掃業者がやってきていて,挙げ句,(お母さんが泣き叫んでいるのに)なんの処置もなく清掃車にぶち込んでゴミ扱いする」などなどなどなど……,本編のプロローグ部分である都内での生活部分だけでも,リアリティーのないシーンは際限がありません(当然,これ以降のどのシーンもリアリズムを欠くものが多いです.作中,唯一,リアリズムを感じたのは「雪ちゃんが "宝物箱" を通じて,周りの女の子と自分が "違う" ことを理解する演出」の部分くらいです.ここだけは,本当に良かった.逆に最も許せなかったシーンは「親子熊がハナを襲わなかったシーン」.これは,個人的に作中最も現実感がなかったw 親子愛的な描写がしたかったんだろうけれど,クマである必要がないし,クマは子連れだと問答無用で襲ってくるから,ダブルの意味でリアリティーがない,とヒグマの生息地で調査をする仕事なワタクシとしては主張したい).これらのシーンにおける描写のリアリティーのなさは,監督が社会の中で生活しているのかどうかを疑いたくなるレベルです.

リアリズムというのは扱いの難しいもので,特に,この作品のようなファンタジーにおいては,「どこまでリアリズムを持ち込んでいくのか」という部分に,クリエイターのセンスが問われるわけです.しかし,この作品は,このリアリズムの扱いという点では,論の外にあります.

小説におけるリアリズムに関して,(たしか)志賀直哉が,「駅のホームで線路を挟んで愛をささやき合う男女」という素人の小説中にでてきた描写を例として,必要最低限のリアリティーの必要性を説く随筆があったかと思いますが(騒音だらけの駅のホームで,しかも,線路を挟んでいるのに愛をささやき合えるわけがなく,このような場面で,「別離」のモチーフとして離れたホームという舞台装置を用意するのはリアリズムに反する,という文脈だったと思います),こういうド素人の書く小説のようなチグハグ感が,この作品の全体を通して感じられます.つまり,基本的に演出や脚本に「気を使っている」感じがまったくないということです.これを,世界や社会に対する観察力が足りなすぎて,自分の脳内の妄想だけで世界を構築してしまった,と言い換えて解釈してもいいです.こういう風に,自分の描こうとしている物に真っ向から対峙していないあたり,この監督はクリエイターとして完全に終わっていると,僕は思います.

何故だか,この作品は「ジブリ」の作品と対比されることが多かったり,「ジブリ的」なんて言い方をされることが多い気がしますが,ジブリを支える宮崎駿監督,高畑勲監督は,リアリズムや観察の鬼であって,細田の立ち位置とは完全に真逆なものだと,僕は思います(特に宮崎監督は,綿密な観察に基づくリアリズム演出によって「ファンタジーにおけるリアリズム」のバランスが非常に巧みです.一方,高畑監督は,ファンタジー要素のない [薄い] 作品でも,何気ないシーンの演出によってリアリティーを浮き彫りにすることが非常に得意です [ex. ホタルの墓,おもひでぽろぽろ] ).……というか,こんな低レベルな作品と比較するだけでも,ジブリの作品群に対して失礼極まりないです.

そして,もうひとつの気がかりである「設定している世界観の不安定さ」ですが,こちらも致命的な悪印象を作品に残します.

ここまでに述べたリアリズムに関する感想と被る面があるのですが,ひとつひとつの設定に描写とのチグハグが目立つということです.例えば,「ハナと狼男の恋愛風景はいかにも 1960〜1970 年代な『神田川』なのに,それ以外の社会描写は,2000 年代っぽい描写が目立つ(流石に携帯電話が出てこないので 1990 年代を意識しているんだと思うけれど……)」,「狼男,半人半獣のこどもたち,山の主の存在などなど,いかにもなファンタジーの設定を導入しているのに,里の人間があまりにもファンタジックではない.『山や伝承に詳しい爺』みたいなキャラすらいない」,「山の主という王道のファンタジー設定を持ち込んでいるのに,山の主に,王道からあまりにも外れた狐を選ぶ不可解さ(たぶん,監督なりのリアリティーの追求なんだろうけれど,狐は伝統的に主というより "使い" であって,役者が足りない.ここは逆にリアリティーを犠牲にして,日本最後の古狼という設定でも良かったんじゃねーか,と.まぁ,雨 [の最後のオオカミとして] の主就任を際立たせる必要があるんなら,熊でもイノシシでも蛇でも亀でもいいわけだし)」などなどなどなど……,こちらも無数にシーンを挙げられます.

このようなチグハグ感も,基本的に観察不足や勉強不足,気の使わなさから来ていることは疑いようがありません.もし,それすらも意図で「王道」に反する新しいものを描こうとしているんだ,ということならば,僕は,監督にこの言葉を贈りたいと思います.


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ここまで,演出面で気になったことを延々と書き連ねてきましたが,演出の良かった部分もなかったわけではありません.

例えば,雪と雨の成長と 2 人の運命の分かれを表現するために,並んだ学校の教室に対してカメラを動かしながら 2 人の学校生活を描くシーン,先程も挙げた「雪が人間になっていく」ときの周囲との「違い」を理解していく演出,基本的に叩かれることの多い,細田監督特有の平板な固定カメラのような絵作りをやめて,雪原を転げ回るシーンでカメラを自在に動かして躍動感を表現していた演出,(ベタだけど)雪の「告白」のシーンでの風に揺れるカーテンに影が映るという演出……などが,特に良かったと思います.しかし,それらの光った演出が埋没するくらい,他シーンの演出の悪さ(上述)が気になりました.例えば,引いたカメラで捉えた,作中劇みたいな切り取られ方をした,お母さんとお父さんの恋愛シーンを,音楽に乗せるという発想は(ベタだけど)悪くない演出なのに,そこに描かれる恋愛が童貞の妄想みたいな気持ち悪い現実味のない描写なせいで,全体として気持ち悪い印象しか残さない,など,もったいない部分もかなりあったと思います.

とにかく,色々な意味で演出は残念極まりなかった,ということです.

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ちょっと,高評価な部分(?)を披露したところで,また,批判的な感想ですが,僕には,結局,この作品のストーリー面の落としどころがよくわかりませんでした(これが,冒頭で述べた「よくわからない……」という感想です).

この作品のストーリー面でとにかく気になったのは,思わせぶりな描写(のちに回収されないので伏線ですらない)が散りばめられる一方で,そのほとんどが後で意味を持つことがない,ということです.この中でもいちばん酷い設定不良は,そもそも物語が「雪ちゃんによる『お母さんの思い出』語り」であるにも関わらず,「"いま" お母さんの思い出を語りはじめたのか?」に答えが用意されていないことです(正確にいうと,子供 2 人が母の元を離れて自立したタイミングで,ということなのだと思いますが,そうだとすると長尺を使ってしつこいくらい描いた「子育て描写」が,その文脈から遊離してしまうのです).このフリに対しては,単純に「最後に子供ができた雪ちゃん」などの,ものすごく王道な描写を入れるだけで解決するはずですが,作中では,それをしないので非常にモヤモヤします.そして,このようなモヤモヤが,大小問わず,無数に出てくるのです.「お父さんの死因をぼかしたのに,特に後に回収されない」,「田舎特有の陰湿さを匂わす描写があるのに,後にはまったくそういうシーンがない」,「飼われた狼登場→その後描写なし」,「雨の入山後にそのことに関する周辺住人や母親,姉の反応なし」,「ソウスケ君の家庭問題→提示されるだけで特に意味なし」,「雪ちゃんとソウスケ君,2 人きりで学校で夜を越す→その後の描写なし」などなどなどなど…….

回収されなかった思わせぶりな描写は,伏線でもなんでもなく,視聴者(僕)の勝手な邪推でしかないので,これに関しては,僕の問題もあると思います.しかし,はっきりと描写されているのに,後に何も言及されない描写があまりにも多いので,その辺りについては,脚本の作り込みの甘さが出たものだとしか判断できません.

基本的なプロットである「両親の恋」→「お母さんのおおかみこどもの子育て奮闘記」→「それぞれのアイデンティティーの確立とそれを促す事件(雨くんの水没,雪ちゃんの宝物箱)」→「成長して自分の道を定める姉弟」→「違う道を選んで自立し,母の元を巣立つ姉弟」……という流れは読み取れるのですが,その本筋と関係のない無数の消化不良な流れがあまりにも多すぎて,本質的なストーリー展開の理解を阻害している気がしてなりません.これらの不満をひとことでいうと「よくわからない……」になるわけです.

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……ここまで演出面で散々なまでに,こき下ろしたので,最後に声優について.

取り敢えず,大沢たかおの演技が酷すぎて,終盤の重要な感動シーン(意識を失ったハナに,お父さんが「よくやったね」と伝えるシーン)がコメディーに見えました.一方,決して上手いとは思いませんでしたが,宮崎あおいは,まぁ,見ていれば慣れてくる程度には,演技できていました.

こどもたちの声を当ててた子役の演技に関しては,まず,声の出し方や設定を決めるという演技の基礎を叩き込んでから使いましょう,という感じです(だから,声優を使えと……).子役達の中では,幼年期の雪ちゃんの声を当てていた子がいちばん上手かったかな,という印象です(まぁ,子役特有の「考えない」ことによって醸されるメソッド演技論的な意味での「自然さ」が出ていただけで,いわゆる「演技の上手さ」ではないですが).逆に,少女期の雪ちゃんの声優(の子役)は,あまりにも声が安定しない上に,思春期感がなかった(大人っぽすぎだった)ので,そのギャップが気になりました(「隠す」演技をしようと考えてしまうことで,不自然に演技が大人っぽくなってしまっている感じ.幼年期の子役と逆の悪い意味で子役のやりがちな演技).

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……いろいろ書きましたが,冒頭で述べた通り,この映画は,多分,見る人のスタンスによって感想がまったく違うと思います.そして,僕のようにある程度の人生の経験値を積んでしまった,ものごとをピュアに信じられない人間と違う,ピュリティーのあふれる童貞男子(ただし,オタクを除く)は,自分の目で映画を見ることをお勧めします.

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(追記)

本当は,細田監督の特有の遠いカメラで捉える劇中劇みたいな平板な切り方をするカメラワークの話とか,オオカミの走行シーンのオオカミの動きに関するあれこれとか,逆に人間の動き(足や腕)の不自然さとか,おおかみこどもが人間とオオカミの間を行き来するときのメタモルフォーゼの表現の美しさとか(特に韮崎のおばさんの前で庭と部屋を雪ちゃんが行き来しながら何度もメタモルフォーゼする部分),サブカルの文脈における半人半獣のこどもの描き方に関するあれこれとか……書きたいことはいろいろあったのですが,ここまでであまりにも長くなり過ぎているので,書きませんw

(さらに追記)
一部わかり辛い記述を修正(2012/08/02).

いくつかこの映画を高評価しているレヴュウを読んでわかったのは,世の中には意外と,どんな経験を経ても「世界はかくも美しい」といえる心の広さを持っている人が多いのだな,ということです.

この感想文をあげた段階では,人生経験を積んだ普通の人ほど,(処女厨の気持ち悪さに通じるような)オタク・サブカル文化圏に通底するようなピュリティー妄信(いわゆる現実味のない青春性とかそういうものが至高で,セクシャリティーや生臭さを排したような世界観)に嫌悪感を示すものだと思っていたのですが,そうでもないようです.確かに,思い直してみると一般の人に「ウケた」ものって,サブカル文化圏の描くピュリティーに近いものがあるのかもしれなくて,それが,いわゆる日本人の好みなのかもしれないな,とか思ってしまうのでした(例えば,「冬のソナタ(に描かれるおば樣方が夢中になったピュリティー)」のブームなんかが,この類似例にあるのではないかと).

……この辺は,あとで,ちょっと文章にまとめたいな.

(またまた追記)

ちょっと見方を変えた部分について別な記事で追記しました