2013年8月29日木曜日

Le vent se lève, il faut tenter de vivre.

……というわけで,風が立ったので「風立ちぬ」を見てきました(実際に見たのは 7/23 ですが,感想を書きかけたまま,とくに忙しかったわけでもないのに長らく放置していました / 反省).

なお,私は,大の堀辰雄好きですが,「いざ生きめやも」は誤訳じゃねーの派です.東大の国文科出てる人間に間違いを指摘できる校正者が居なかったのではないかと邪推している次第です.

※これは,特にジブリ好きではなく,敢えて「風立ちぬ」(と名付けた作品)であり,「堀辰雄」の名を映画宣伝に関しているからこそ食いついた堀辰雄好きの感想であるということが重要です(たぶん).

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さてさて,肝心の感想ですが,一言でいうと「面白かったか面白くなかったかでいうと,面白かったが,よかったかよくなかったかでいうと,よくなかった」という感じです.自分でも,なんとも曖昧な感想だと思いますが,そういう表現しか思い浮かびません.これでも,いちおう,肯定的な感想を言ったつもりです.

そもそも,鑑賞に挑む態度で,よくなかったなと反省しているのは,この映画が堀辰雄的な意味で「風立ちぬ」だと思ってしまっていたことと(もちろん,本物の原作は映画化発表前から知っていたんですが.キャラが動物のやつ),「技術者を描いた映画」と思い込んでしまっていたことです.だって,映画のポスターの「それらの夏の日々」感が半端なかったんですもの…….そして,堀越二郎の名前が挙げられているんですもの…….

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基本的に,宮崎駿のアニメの良さっていうのは,(あくまで個人的にですが)誰もが曖昧に形にならない状態で夢想している「なにか」を,ばっちりと「絵」にしてしまった凄みと,その「絵」を動かし,抉るように映すカメラカットの巧みさ,動きに合わせてグイグイ回るカメラワーク,あたりだと思います.ストーリーとかそういうものに関しては,一流だとは思いますが,その中で頭抜けているとは思いません.やっぱり,それを「絵」や「動画」に落とし込む段階に,宮崎駿の頭抜けた才能があると思うわけです(※個人の感想です).

そういう見方でいうと,この作品は,ほとんどのシーンが「枯れて」いました.どのシーンも,かつて,どこかの宮崎映画(か,宮崎フォロワー的な作家の作品)でみたようなありきたりなものばかりだったと断言できます.なにしろ,「宮崎映画の映像としての醍醐味である」とよく論評される「空を飛ぶシーン」ですら,本作品ではちっとも面白みのない絵になっていたくらいですから,彼の「枯れ」はだいぶ進行しているといえます.とくに,冒頭の主人公が奇怪な飛行機に乗って街の上空を飛び回るシーンの(絵としての)つまらなさは,ジブリの黒歴史に残るレベルでした.

本作で,絵や動きとしていちばん面白かったシーンは,断然,関東大震災発生のシーンです.この街がうねるカットについてだけは,いつもの宮崎駿の「醜悪なものを描く才能」がいかんなく発揮されていたと思います(……とはいえ,日本地図が登場して想定震源から同心円が広がるカットについては,あんまりにも呆れ過ぎて一人で大爆笑してしまいましたが……).

あと,「動き」でよかったのは,主人公の妹の幼少期の仕草の描き方です.階段を登る仕草,兄に話しかける仕草,全てが「史上最凶のロリコン」と呼ばれる宮崎駿の真骨頂といっていいレベルで完璧でした.パーフェクト.

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技術屋,または,技術屋を描くということについて.

結局,ただの機械マニアには,「技術者」のことなんてこれっぽっちもわからねーんだろーな,という寒々しい感想しか残りませんでした.あれです,僕(本業:かせきはかせ)が妄言を吐いている不勉強な化石マニアを見ているときの気分に,ちょっとだけ似ています.ただの機械マニアなら,己の妄想を緻密に「それらしく」描くことに情熱を燃やしている松本零士御大とか,「配線って美しいだらう」とでも言いたげに,ひたすら電線を執拗に描いた庵野とか(序のヤシマ作戦)のほうがよっぽど "マシ" です.

巷では,いち「アニメ制作者」宮崎駿が,いち「技術屋」の生涯に仮託して自伝的な映画を撮った,というような論評を見掛けますが,少なくとも僕には,「自分の姿は堀越二郎くらい偉大で美しいんだ」という,尊大な自意識のもとに鏡に映った自分で自慰をする姿を見せつけられるような,強烈なナルシシズムしか感じられませんでした(※あくまで個人の感想です).

「技術屋」の描き方については,本庄と課長がいたから,まだ,マシだったというくらいで,ちっとも面白くはありませんでした.なんというか,たぶん,宮崎駿の機械オタクとしての生半可な堀越二郎に対する敬意が,彼の仕事,苦労,努力を「バカにしている」というレベルまで陳腐な描き方を選ばせている,というような,不可思議な描かれ方をしているのでした.

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映画の本題,というか,「死」の描き方,または,「風立ちぬ」というタイトルの所在について.

死って,そんなに「美しい」ものじゃないって思うのですよ.堀辰雄の「風立ちぬ」が美しいのは,「それらの夏の日々」であって,それが美しいのは,流麗な堀辰雄の文章に彩られた K 村の風景,節子,詩のような思索,陰惨な現実としての「死」が静かに控えていようともなお生きている,その瞬間であって,死ではないわけです.死が本当に美しいものだったら節子は「私,なんだか急に生きたくなったのね……」なんて言わないし,残った作家はリルケのレクイエム程度で「生きよう」なんて思えない.そのぐらい死は残酷で醜悪なものなわけで,「美しい時」だけをみて,「夢」のような世界で,花に囲まれて美しい光になって散るなんていう描写をされていいものではないのです!あのラストシーンのせいで,前半の,悪趣味なほどに醜く,汚らしく描かれていた(そして,宮崎駿の性格の悪さを存分に表現していた)関東大震災が白々しく感じられました.

「ポニョ」あたりから,若干,感じていたことではあるのですが,宮崎駿は,死ぬのが怖くなってきたんじゃねーのかな,とか思うのです.そのせいで,「死を美しくしか描けなく」なったのじゃないかと…….少なくとも,この映画からは,過去にアシタカにバサバサ殺されるモブを描いたり,死に往くライ病患者に手を差し伸べるエボシ御前の美しさを描いたりしていた宮崎駿の欠片はひとつも残っていませんでした(「もののけ姫」ばっかw 結局,僕は,彼のアニメでは「もののけ姫」しか好きではないのかもしれないのですが,それは,また,別な話w).

もし,菜穂子の死ぬシーンが,痩せこけて血反吐を撒き散らしながら,窪んだ眼で主人公(の幻影,でも可)を見つめるというものだったら,いや,死ぬシーンは花に散っていたとしても,一度でも血を吐きながら,苦しみで顔を歪めながら「(その苦しみが続くとしても,一秒でも長く)生きたい」というシーン(=「私,なんだか急にいきたくなったのね」に比定)があったなら,もう少し,"マシ" な映画になっていたんじゃないかな,と思うのです.

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この映画で唯一,僕が泣きそうになった(というか,泣いた)のは,関東大震災で焼けだされた本庄と無数の文献,そして,めちゃくちゃになった研究室,というシーンでした.あのシーンは,2 年半前,無数の文献に沈んだ居室,砕け散った顕微鏡類,割れたビーカー……,それらを眺めながら,なんとも言葉で表現できない複雑な感情に駆られた,あの日のことを思い出してしまいました(ネガティブにもポジティブにも).

最後に,庵野について.

個人的には,お世辞にも上手くはなかったけれど,演技の意図しているところはよくわかったし,外してはいなかったと思いました.まぁ,20 代の主人公の声をやるには「歳を食い過ぎている」とは思いましたが…….個人的には,監督・演出家としての庵野のスタンスが,彼の演技から読み取れるかな,と期待していたんですが,完全に,ジブリ的演出に従って演技をしていたので,そのあたりは,残念だったなと思います.

僕が,この映画に望むことは,ほんの少しでもタイトルを切っ掛けに「風立ちぬ」に興味を持つ人が現れて,ほんの少しでも,堀辰雄の書く文章の,世界の美しさに魅了される人が現れてくれることだけです.それ,だけです.