2014年12月24日水曜日

遷移

人生,なんとなくで生きているけれど,大抵なんとかなるものです.「為せば大抵なんとかなる」なのです.

去年,10 年目に突入したときに,「あー,来年度いっぱいで,もう,約半分は離れて暮らしていることになるんだなー」とか思ったのが,いま思うと切っ掛けなのかも知れません.あと,社会人になったとか,申し訳が立たない人が増えてきたとか,「僕,もう,疲れたよ……」とか,今年度に入って立て続けに病気になってぶっ倒れて色々考えたとか,まぁ,細かいところは色々です.

そんなわけで,なんとなく話を固めはじめて,夏頃には予定を立てはじめて(この頃に妹が結婚したのも関係していると言えばしているような),初冬に話をまとめました.

そんなわけで,10 年を区切りになんとなく,別な方向に向かってみましたが,なんということもなく,相変わらずな日常です.物理的にも,精神的にも.

2014年12月8日月曜日

半径 5 m と前後合わせて 10 人

これが,普通の人の興味と関心が向かう限界だと思う.もちろん,数字は喩えだけれども,斯様に人の意識の及ぶ範囲というものは狭い,ということだ.こういう風に狭いからこそ,観測者(自分)がそのときにある立ち位置がその人の世界の全てになってしまう.言い方が悪いうえに極論だけれども,「ワルそなやつは大体トモダチ」な環境にいれば,いわゆる一般的とされるサラリーマンのことは分からないし関心がないだろうし,生まれたときからハイソサエティーに所属している人間には,ワーキングプアがおかれている世界は(どんなに聞いたって)分からないし,関心の対象にはなり得ない.

基本的に,コミュニティーを成立させるエンジンになりうるのは連帯感や相互理解という幻想で,前後 10 人や半径 5 m が(一部であっても)重なると,お互いの世界が関心の対象となりあたかもひとつのコミュニティー(20 人)が存在すると錯覚してしまう.しかし,そこがひとつのクラス程度の人数しかいない閉鎖系でもない限りは,端成分同士が理解しあえていることは,基本的にはないだろう.

人が関われる世界は,年を取るごとに狭くなる.貧富の差,性差,学力の差,運動能力の差,世界観の差にとらわれることのない交遊を築けるのは,まぁ,幼稚園から小学校くらいまでであって(この頃であっても貧富や出自は,主に親の影響によって,交遊を妨げる障害になることもあるだろうけれど),中学にでも入ると相互に共有しきれない世界が広がるにつれて様々な要因が交遊を阻害し始める.高校・大学になると厳然たる(学力による)篩い分けの結果,住む世界すら隔てられてしまうことが多々ある.それぞれのいる場所(階層と言ってもいいけれど,本質的に上下が存在するわけではないので平面状に点在しているコロニーと仮定したいところ)が固定化して細分化していくことで(具体的に言えば就職を経て会社に入ってしまえば,通常,重要な人間関係の大部分は自分のいる会社 [大企業であれば自分のいる部署],家族,綿密な連絡の継続している親友程度になるだろう),自分の興味の及ぶ 「10 人」の多様度は減少していくだろう.

もちろん,自分の興味の及ぶ世界の広さも同じことで,子供の頃は家と学校と遊びに行く公園程度が世界のほとんどで,自分に影響の及ぶことの全てが自分の「半径 5 m」で納まっていたから,その勘違い全能感は巨大だったと思う.しかし,年を取れば世界は広大であることを知って,自分の関心の及ぶ「半径 5 m」のなかに入れるものを選ばなければならなくなり,そのあまりのスペースのなさに気が付いていくものだ.世界の広大さに対して,自分の関心の及ぶ範囲は,あまりにも狭い.

そうやって,自分のもつ世界の狭さを自覚することで絶望して,諦観に至って,その範囲の中を幸福で満たせるように生きていくのが大人になるということなのかもしれない,などと感傷的な感想を述べてみるのもいいが,いまの世界は,そこまで単純ではない,ということが,この記事の主題.

世の中の技術が発展して,人は暇になった.暇になったことは,「半径 5 m,前後 10 人」にちょっとした余裕を生じさせた.現代人は,そういう,少しだけ空いた自分の世界の余裕に,なにかいまの自分の関心にないものを詰め込むことに快感を覚えるらしい.

こういうものの典型が,SNS による緩く広い連携や,新書の読み齧りや,生涯学習なんかであって,それは一面的には,非常に有益な事象だと思う.こういう社会全体のリテラシーを向上させるようなものは,少し前の時代にはありえなかった.

例えば,近年盛んになっている SNS とか情報による緩い連携は,光学望遠鏡を手渡されているようなものだと思っている.時折,望遠鏡を覗いてみると自分が関心を捨てた世界にいるかつての知人や遠い世界に居る著名人の様子が可視光を反射するものに限って見えるようになる.それですべてが見えた気になるし,その世界に関心をもったという満足感に浸れる(そして,可視光の反射したもの以外が存在していることにすら気付かない).この満足感が幻想を生む.お互いに,気が向いたときにだけ望遠鏡を向けあって,世界の上辺を確認しあうことで,全然違う世界にいる他人と同じ世界にいられていると錯覚させる.特に,かつて同じコミュニティーを形成していたことがあるこの錯覚のもつ麻薬のような快楽が,これらの緩い連携に人を魅きつけているのかもしれない.

ただ,SNS なんかの生み出す共同体幻想は,大体の場合,自分の関心に近い範囲をやや拡大するに過ぎないので,その幻想に溺れることは,そこまで悲惨な状況を生み出すことはないだろう.しかし,メディアや報道による共同体幻想はもっとひどい.それらは,誰か(記者)が望遠鏡で覗いて書いたとある世界の報告書を読んでいるだけのものだ.報道をみたって,その対象となった世界を復元することなんて絶対に出来ない.それは,自分が深く関わっている世界の報道を読めば明らかなことだろう.

もちろん,メディアも報道も昔からあったし,それらを見ることは昔からあったのだけれど,少なくとも一昔前はそれらに感ける暇の方がなかった.みんな忙しかったのだ.だから,自分の「半径 5 m,前後 10 人」の幸せと利益だけを考えていれば良かった.

しかし,情報化社会になって,気が向いたときに「半径 5 m,前後 10 人」の外の世界の上辺を眺めることが容易になったし,お隣のコミュニティーどころか,そこから一足飛んで全世界に向けて情報を発信することが容易になった.この結果,いまの社会は,一介の主婦が,化学も,物理も,工学も,原子力というエネルギーも,原子力発電の仕組みも,放射化学も, その危険性も,それに対する事故対策も,現場で働く人間の仕事も,世界のエネルギー事情も,エネルギー外交も,環境負荷も,なにも知らないまま,「脱・原発(※)」と恥ずかし気もなく唱えられる程度に,大きな幻想を生み出している恐ろしい社会になってしまった.そして,この状況をコントロールすることは誰にも出来ないのだ.

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※当然,「脱・原発」と唱えることが問題ということではなく(あらゆる,とまでは言わなくても,どこかの分野に専門性があって,それ以外の分野についてもある程度の勉強をした上で判断しているのであれば,「脱・原発」だろうが「原発推進」だろうが,なにを唱えても関係はない),問題は,全くの無知が,報道やメディアの情報に触れるだけで「脱・原発」と唱えられる知識を持っている世界にいると錯覚できてしまい,なおかつそういう主張を出来てしまうということを規制できないということ.この「脱・原発」に「反・韓国」,「右翼的な思想」,「強硬外交」,「死刑制度の存続」なんかのいわゆる「ネトウヨ」言説を当てはめても本質的には同じこと.

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この現象の質が悪いのは,自分を中心とする「半径 5 m,前後 10 人」の世界が均質化していることで,余暇に得た自分の巨大な妄想について気付かせてくれる人とほとんど関わりを持てないということだ.その結果,勘違いを助長して,妄想をより強固にしていく(そんな感じの人,バカッターや顔本にいっぱい居るでしょう?もしかすると,自分の「フォロワー」や「友達」にもいて,その人の発言を見るたびに頭が痛くなることだって珍しくもないのでは?).そして,時々覗く世界の少し先には余暇があっても興味がないから,そこで行われている現象は見ることさえしない.もしかしたら,その世界の存在すら知らないだろう.これは,ちょっとしたホラーだ.

そもそも,ほとんどの人は,自分の「半径 5 m,前後 10 人」の外の世界について,論理的に物事を考えるのに必要十分な知識を得ることも出来ないし(能力の問題ではなく忙しさの問題),かなり多くの人はそもそも感情的になることなく論理的に物事を考察することなんて出来ないので(こっちは教育と能力の問題),望遠鏡で眺めたり,誰かが望遠鏡で眺めた話を聞いたりしただけで,何かを語った気になって悦に入っているだけなのだけれど,そのことにも気付かないし,自分の関心のある世界には,それを諭してくれる人もいない,ということ.そして,自分の全く関心のない世界の人からの言葉には耳を傾ける余暇が,そもそもない.

これらは,情報化社会の生み出した化物だとも言える.

そんな,情報化社会の化物たちが国や地域の代表を決める「選挙」がはじまった.地域やコミュニティーの利益代表を選んで国政に送り出す時代が終わった結果,いまの時代の選挙は,一体,「なに」を反映したものを選んでいるのだろうか,などと,クソうるさい選挙カーに午睡を妨害されながら考えたのでした.

2014年11月29日土曜日

円盤のある町

久し振りに円盤のあるはずの町に行ってきたのですが,思いのほか聖地化していなかったので驚きました(今年も頻繁に湖畔にはいたのですが,最近は,通過してばっかりだったので).アニメ・マンガフェスタとかを毎年定期開催しているくらいなので,もう少し盛り上がっているものかと思ったんですが,(チラ見しただけだけど)観光窓口にも円盤の欠片はなく,あんまりアニメの聖地になっている自覚がないのかなぁ,と思ったのでした.いや,聖地商売とかはじめてたらフルボッコにしていた気はしますがw

たぶん,北海道の自治体って,良くも悪くも北海道ブランド(というか,地元の地物)に絶対的な自信があるのか,外因的な盛り上がりを嫌う向きが強い気もするので,そういう部分が,弾けきれないところでもあるのかなと思います(ただし,富良野は別なw).

まぁ,あの円盤アニメがそういう方向で役立つとも思えませんが.僕は好きですけどね,あの円盤アニメ.

2014年11月25日火曜日

読册

「謎の彼女 X」 12 巻

よだれ漫画完結.

想像上の高校生の恋愛を描くという観点から言って,物語の発端(はじめて SEX をする相手云々)に対して,「制服」というキーワードに絡めて最後まで「キスをしない」という展開に持っていったのは良かった.やっちゃっても,それはそれで良かったとは思うけれど,椿くんは永遠の童貞の象徴として輝いて欲しいw

個人的に,デレ諏訪野は大好物です.はい.

2014年11月19日水曜日

ジャック・ブルース

もう,2 週間くらいに 前になりますがジャック・ブルースが亡くなりました.僕の大好きなベーシストで,ベースに熱中していた頃は,多くのロックベースキッズ同様,彼のベースラインをひたすらコピーしまくっていたことを思い出します.

もちろん,言うまでもなく,Cream 以降のプロジェクトも素晴らしかったのですが,めちゃくちゃ不仲だったと言われているジンジャー・ベイカーとリズム体をやっていた Cream 時代がやっぱり凄くて,たった 2 年の活動とはいえ,僕にとっては,やはり,この期間のベースプレイが特別に輝いている気がします.

合掌.

2014年11月1日土曜日

備忘録

取り敢えず,初参加した学会の印象とか備忘.内容に関係なく,単純な感想とか.


  • 学会参加者がみんなスーツという状態が壮観.企業参加者が多いシンポジウムとかに参加する機会は,就職して以来,複数回あったけれども,ブルーカラー系の服装の人も多かったり,私服参加の人もそれなりにいたりしたので,完全にスーツだらけというのはやっぱり驚いた.
  • 発表後の拍手は,どこの学会でも定着しつつあるのか,この学会では昔からなのか分からないけれど,発表後の拍手はあった.個人的には,拍手文化は定着していいと思う.そんなのしないという殺伐とした学会も好きだけどw
  • 地質学と地熱(関連の学問)って近いようで遠いと感じた.同じものを見ていても,根本的に捉え方,考え方が違って面白かった.たぶん,この間を繋げるのが,今後の僕の課題.
  • 凄い印象に残った面白い発表が(いくつか)あったのだけれど,それが二年前まで同じ山の上に住んでいた人たちの研究で,こんな研究が行われていたことを同じ山の上に住んでいたのに全然知らなかったのが恥ずかしかった.もっと,工学系と理学系は連携していかなきゃダメだと痛烈に感じた.こんなに近い分野なのに,完全に独立に研究が成立してしまっていて,お互いの知見を参照しあえないなんて,真に不幸だ.それが分かったことが,今回,この学会に参加できたことの最大の収穫.
  • 勝手な印象として,お金儲けに直結するからこそ,企業の人はプレゼンが上手いんだろうな,と漠然と思っていたけれど,そんなことはなかった.プレゼンの上手さは,一流の研究者>官公庁の役人>普通の研究者〜優秀かつ熟れた学生>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>企業の人,普通の学生>>練習不足の学生……というイメージ.とにかく企業の人は例外なくみんなプレゼンが下手すぎて,カルチャーショックを受けた.いやまあ,プレゼンが下手クソな僕みたいなクソ野郎に言われたくはないだろうけれど…….
  • これまでも何度か聞く機会はあったけれど,やっぱり,役人のプレゼンは,出せるものは全部出す,出せないものは一切出さないし,匂わせもしない,というのが徹底していて面白い.
  • 意外と聞いていないつもりだった学生時代の興味がなかった講義の内容って頭の片隅には残っていて,そんな乏しい知識からでも話が構築できるもんだな,と思った.
  • 懇親会の料理が豪華で,量も多くて,いま潤っている分野は違うな,と感じたw

そんな感じ.

過渡期の違和感

昨日,学会終わりに弘前の街中を散歩していたら,妙なコスプレ(猫耳付けてたり,小悪魔的な触覚としっぽを付けてたり,顔にペイントしてたり)をした女子高生を大量に見かけて,「弘前はコスプレ JK の聖地だったのか!」とあやうく移住を決意して弘前大学の公募情報を漁ってしまったりしたのですが,冷静に考えてみるとそんなことはあるわけもなく,ハロウィンの催しが行われていただけだったようです.

ハロウィンと聞くと,僕くらいの世代だと ブギーマンが惨殺しまくるか,カイ・ハンセンかマイケル・キスクがネオクラシカルな音の洪水の中でシャウトしているか,サキュバスコスをした淫乱な女の子が「Trick or treat?」とか言ってお菓子をあげないと精液を搾り取られる的なエロマンガの印象しかなく,云われも伝統も実のところ知らない人が多いように思います.実際,海外でも,収穫祭的な雰囲気は残りつつも,ジャッコランタンを飾ったり,子供たちがお菓子をねだり歩くという民間行事のようなものであって,云われもなにもよくわからないまま,形だけが残っているものだという話も良く聞きます.

そんなハロウィンですが,ここ数年,日本でもお祭りとして定着させよう(そしてあわよくば儲けよう)という風潮が散見されます.昨日の報道によると,渋谷では警官が出動し,警備が行われる程度に大きな騒ぎがあったようです(逮捕者が出たとか,そんな報道も見ました).

まぁ,古くからクリスマス,バレンタインデイのように海外のイベントを輸入してきて,よくわからないイベントに昇華してきた歴史が日本にはあるわけで(挙げ句にはホワイトデイなどというどこにも存在しなかったイベントを捏ち上げたり),そのひとつとして今度はハロウィンが取り上げられた,という経緯はよくわかりますし,それ自体はそういうものなのだろうと理解は出来ます.また,幼稚園のイベントとかで,「よくわからないけれどお菓子が貰えるから」という理由で手作り感溢れるお化けの格好をして「とりっくおあとりーと!」なんてやっている子供たちの姿は微笑ましいとも思います.

でも,いま現在の状況の,この違和感はなんだろう?

クリスマスとかバレンタインデイは,僕が生まれた頃には既にそこにあるものだったから,違和感を覚えるまでもなかったのかもしれないし,ハロウィンもいずれは違和感なく日本の中に取り込まれていくのかもしれないのだけれど,やっぱり,なんか妙な気分を感じざるを得ません.

たぶん,この理由は,僕がハロウィンを経験しないままいい大人になってしまったことと,ハロウィンに馴染んだ子供たちがイベントを担っていないからなんだろうなと思います.取り敢えず,ごく一部を除いて,つい数年前までハロウィンの認識が僕程度(冒頭参照)だったであろう 30 代とかの人間が "自分で" ハロウィン的なイベントを楽しんでいるという事実が気持ち悪いのだと気付きました.僕らの世代は,クリスマスやバレンタインデイ,そしてハロウィンであっても,を楽しむ側じゃなくて,子供たちにそれらのイベントを楽しませる側なんじゃないのだろうか,と思うわけです.

(註: https://twitter.com/ryhrt/status/528373074547068928

例えば,自分の子供に仮装させたり,ジャッコランタンを作らせたり,お菓子をあげたりだとか,町内会でハロウィンイベントを企画して,子供たちが地域の家々を訪問して,お菓子を貰って廻ることで地域の密着度を上げるだとか,商店街で子供の客にちょっとしたお菓子を配るだとか,大人はそういうものを企画する側なんじゃないのか,と .少なくとも,ドヤ顔で仮装して出社したりする姿をドヤ顔で SNS に載っけたりとか,公共の場を占拠して官憲の手を煩わせたり,無関係の一般人に迷惑をかけたりとか,そういうバカなことを「これもひとつの文化交流だから」みたいな大義名分の元でスルーするのは,最終的に「ハロウィン的なイベントを日本に馴化して定着させる」ことを阻害しているだけにしか思えません.

いま,ハロウィンだとかなんとかよくわからずに「とりっくおあとりーと!」と叫んでいる子供たちが,ある程度の年になって,その子供たちに日本的に馴化したハロウィンを楽しませるくらいの時代になったら(ハロウィンで盛り上がることに慣れているであろう,いまの中高生が子供を作る頃と考えて,10 年後くらい?),こんな違和感はなくなるんだろうけれど,過渡期のいま,特に,バカな,いい年をした大人が騒いでいる姿は,なんとも見苦しいものだと思ったのでした.

2014年10月26日日曜日

弘前

某学会に遊びに行くので弘前に行ってきます.

今回は,あんまり事前情報を得ていないので,現地でちょこちょこと情報を仕入れながら遊ぼうかと思います.

2014年10月25日土曜日

流動的

情報のシャワーの価値は認めなくもないのですが,自分の情報処理能力と,自分自身の流動性と,特有の余分なものの多さと,存在する必然性の喪失と,感情の絡んだ個の連続性とか波の妥結点として見るのをやめてみたら快適だったという話です.

たぶん,そのうち,アカウントも消すか,または,復活させるかもしれない.

2014年10月5日日曜日

天才の仕事

「ニッケルオデオン(青)」 道満晴明

道満先生のショートマンガ集,ニッケルオデオンのシリーズ最終巻.作品の素晴らしさは言うまでもないのだが,なによりも,またしばらく道満先生のショートマンガがコンスタントに読めなくなってしまうという喪失感が強い.道満先生は,日本の全ての作家と呼ばれる存在の中での最高峰だと思う.

既刊である(赤)(青)では,一般紙であるためか,やや性的な表現やグロテスクな表現,死の臭いを感じさせる表現などが,やや抑え気味という印象を受けたが,連載終了に向けて加速したためなのか,その辺りの自主規制をやや解放気味にしたような話が見受けられ,「性本能と水爆戦」シリーズのテイストに似た雰囲気をもつ話が多い印象を受ける.僕自身は,道満先生の作品が掲載されているからという理由だけで(何しろ,ワニマガジンは単行本化がてきとーなので)快楽天を定期購読していた程度の道満先生のファンなので,規制されるようなヤバい臭いの中に現れる瞬間的な悲哀とか美とか,そういうキラキラドロドロとした欠片を無機質な棒人間のような絵柄の人間たちを使ってクッキリと切り取ってしまうような作品群が堪らなく愛おしく感じてしまうのだ.

(青)の中では,チーコとウロフィリアとナルナとうたかたの日々が際立って良かった.積めない方程式は,「醜悪な巨大ロボットと花」的なものの翻案で,やや狙い過ぎの感があったけれど,単行本だけにつく二段オチの二段目がちょっと好きだった.特にチーコはいかにも道満先生的で,頭のネジが吹っ飛んだ女の子とそれを愛してしまった男の子のディープラヴで素敵でした.道満先生の描く頭のネジの外れちゃった女の子は,どうしてこうも魅力的で心をザワザワさせるんだろうか…….ナルナの欠損娘ちゃんも,やっぱり,どこかネジが吹っ飛んでいてよかった.

日本というごちゃ混ぜのるつぼみたいな文化の中の更に混沌のサブカルチャーの中だからこそ生まれてきた道満晴明先生の作品群は,だからこそ無二で,キラキラと輝いていて,この小さな火が消えることなく,またどこかでショートマンガを書ける場を得て欲しいと思います.

2014年10月2日木曜日

鹿児島

学会(という名の観光という名の「咲」の聖地巡礼)で鹿児島行ってきたときの写真.

詳細は→ 1, 2, 3, 4

火山灰を集めるための袋.「克灰袋」.噂には聞いていたものの実物を見ると感慨が.

天文館の「むじゃき」の店頭

鹿児島と言えば白熊.うまかった.

日常的に火山灰が降っている

きびなご

桜島!鹿児島港からフェリー(バス感覚)で渡ります.

桜島にある恐竜公園(謎)

桜島(南側から)

黒糖.喜界島の黒糖がなかったので購入はしない

桜島(大隅側から).黒いのは噴煙

大正噴火で埋もれたという鳥居……のパチもん

そんなパチもんを展示しているどこからどう見ても怪しい店

大正の噴火で 2 m 以上積もったという火山灰に埋もれた鳥居(本物)

霧島神宮(「咲」の聖地巡礼).姫様どこー?

姫様とはるると巴ちゃんを捜しつつ

姫様が降ろす九面の方々

九面の方々全員集合

……というわけで,来年の某地質学会は信州大会なので,学会兼「咲」の聖地巡礼ツアーがとうとう本丸・長野に突入です!

2014年9月29日月曜日

レボってる!

「シノハユ」 2 巻

いつ完結するんだろう,というのが率直な感想.単行本未収録の 0 話から悲劇的な未来しかないことが分かっているから楽しみなんだけど,進行が遅すぎて…….

取り敢えず,存在が許されないレベルのクソ阿知賀編よりは数倍は面白い.

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「咲 -Saki-」 13 巻

「かわいいです!」

最近,咲さんの不気味さが際立ってきている気がする…….照ねーちゃんがが妹の存在を認める場面での照淡の二人が可愛すぎてヤバかった.色々持っていかれた.

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購入記録.

たぶんあとでどこかにかく

地質災害が頻発して,地質防災とか,地質学的な知識が社会に求められるようになったのは,地質関係者として好ましい展開ではあるんだけれど,世の中なんかズレていると感じる.この「ズレ」の感覚は,科学と魔法の「感覚的なズレ」に近くて,ギリギリ科学少女なふぉるしぃなものだと思うんだけど,問題は,(サイエンティストの側の)先人の生み出した科学の社会からの疏外(ヘーゲル的な意味で)であるということ.なんで,科学は社会から疏外しなければならなかったのかとか,元々,地質災害の総合商社(古い比喩)であるはずの日本で科学の中でも地質学が特に見え辛くなってしまったのかとか,「わかりやすい」という問題とか,その辺についてうだうだと書きたい.

2014年9月9日火曜日

31

かつて,僕がまだ若かった頃,自分は 30 まで生きないと思っていました.その理由は色々あったのだけれども,身体も心も強くなかったし,基本的に,死にたがりで,中二病だったので,30 まで生きるということが,当時信じていた自分の清廉性と感性の死そのものだと思っていたのでした.

実際,30 を越えてみると,確かに,あのとき信じていたもののうちの何かは死んだし,未だに変わらないものもあるわけで(とはいえ,何かを得たとは思えないのも事実),別段,生に執着しているわけではないけれど,何かを失いながら生きていることも悪くないと思うようになりました.

そんなわけで,30 を越えて 1 年.まぁ,何故だか生きています.今年も,小鳥さんと一緒に年を重ねられた幸福に浸りつつ,数日後の某学会発表に頭を悩ませるのでした.

2014年9月2日火曜日

あっちに書いた

あっちに長文書いたけど,こっちで書いても良いような内容だったので→http://mad-bass-laughing.blogspot.jp/2014/09/blog-post.html

2014年8月26日火曜日

旧劇

エヴァの旧劇がテレビ放映されたこととか,その規制(TV なんだから当然のことで,わざわざ騒ぐようなことではない)が話題になっているようですが,新劇場版への大きな期待も抱きながら,やはり,旧劇こそが "エヴァンゲリオン" の正当なラストだと思っているわたくしです.こんばんわ.

旧劇も長らく見ていないのですが,未だに,あの頃の作画,物語,物語の終焉,(鶴巻さん曰く)庵野監督のうつ状態が反映されたシンジの姿など,すべてが好きです.最後にアスカを選んだ人間くささとか,エログロの融和したところとかも好きだし,やっぱり,新劇場版とかいらないよな!(暴言)

エヴァとかあの現象に思い入れが強いのは,どうしたって,あの頃に,あの世代として,あれを受け取ってしまったという事実が,間違いなく大きいので,他の世代の人にはなんでエヴァなのかなんてわからなくても,それはそれでいいのだと思います.僕らだって,おっさんの思い入れは(同時代性をふくめた本当の意味では)わからないし,年下の世代の思い入れはわからないわけで(例えば,ハルヒとか),これでいいのだ!(CV: 伊集院光)


2014年8月25日月曜日

代ゼミ縮小に思ふ

先日,なぜか,大学に入りたての青年とダラダラと喋る機会があり,そんな中で,受験の話になったのですが,その青年のいう今の受験の様相が,自分が受験生だった頃と様変わりしていることに驚きました.何より驚いたのは,彼の中での代表的な予備校が「駿台,河合,東進」という組み合わせになっており,代ゼミに関しては模試としてすら話題に挙がらなかったことです.そんな話をした直後に,例の代ゼミの校舎数縮小のニュースが流れたので,なんとなく,そういうものなんだな,と納得しました.

僕は,浪人経験がないので本科生として予備校に通ったことはないのですが,受験勉強の補助として,(学校指定の割引とか色々効いて安かったので)代ゼミのいくつかのコースを取っていました(英語 [富田],数学 [津田沼校の名物講師雨宮さん],化学 [亀田] あたりを).夏期講習とかでは,その他にもいくつか単発的に授業を取っていたと思います.

そんなわけで,このたびのニュースには色々と胸に去来するものがあります.

全国模試やセンター判定なども中止するということで,本格的に受験産業から撤退するんだなぁ,と思うとともに,世の中の情勢を鑑みると,なんとも経営が金儲け主義という噂の絶えなかった代ゼミらしいなと思います.なんか,業種を不動産業とかに転換するなんて言う憶測も出ていたりしますが,それらの記事で触れられている今の受験産業を取り巻く状況を見ていると,僕の世代(=少子化の下降傾向がはじまる前の出生数のピーク)とは,若者の世界ががらりと変わってしまっているのだなと感じます(なかでも衝撃的だったのが大学入学者のうちの浪人生の割合が 1/7 だという報道でした.僕らの頃だと上位校だと半分は浪人生だったような……).そりゃあ,大学に入りたての青年と色々な意味で会話が噛み合ないわけだ,とおっさんになったことを嘆くのでした.

2014年8月18日月曜日

県の石

某地質学会の企画で,都道府県の石というものを募集しています.各都道府県を代表するような岩石,鉱物,化石を某地質学会が認定して,地学をアピールしようと言う狙いなのですが,ちょっと面白いので色々と妄想してみた.

※一般募集中なのです.Yahoo! ニュースにも取り上げられています.いろんな方面からの要請により宣伝(ステマ).

地質に関して,僕がある程度の知見を有するのは北海道だけなので,北海道を例にしますが,まぁ,一般的な見解(というかたぶんこれで決まるだろうというもの)としては,「岩石→かんらん岩」「鉱物→日高翡翠(透輝石)」「化石→アンモナイト(種まで指定なら Nipponites mirabilis)」あたりでしょうか.次点としては,岩石に黒曜石が入って鉱物にかんらん石が入るという組み合わせ辺りが有力なのではないかと思います.多分,アンモナイトは揺るがないでしょう(某地質学会の公式募集ですでにそれが決まっているような書きぶりですし).

正直,岩石と鉱物に関しては(あんまり興味ないし)どうでもいいのですが,化石がアンモナイトに決まってしまうのは,なんか納得がいかないと感じる人も多いのではないかと思います(他の地域の白亜系が形無しだし,北海道を代表するかというと疑問符がつく).そんなわけで,いくつか代案を考えてみました.

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「デスモスチルス(もしくは束柱類)」

「瑞浪で世界初記載の個体(Holotype)が出たとか知るか!殴り込みじゃ!瑞浪 Mio がなんぼのもんやねん!」ということで,世界に 2 体だけの全身標本の産地(1 個体は現サハリンだけど)であることをアピールして岐阜県と殴り合いをするというアイディア.デスモスチルスで負けたらシレっと Ashoroa laticosta を提出して,束柱類の元祖をアピールしちゃえ!

「タカハシホタテ(Fortipecten takahashii)」

これは,わりと真面目に.東北でも産出するけれど,北海道〜サハリンの固有化石といって誰も文句は言わないであろう化石.アンモナイト(笑)を挙げるくらいなら,是非ともタカハシホタテを推していきたいところ.

「ホベツアラキリュウ(ホッピー)」

酒ではない.意味もなくフタバスズキリュウを擁する福島県に喧嘩をふっかけるというアイディア.いや,ただ,無意味な争いを生みたいだけです.

「イノセラムス類(とその化石層序)」

これもわりと真面目.日本の白亜系の化石層序の成立という学術的なバックボーンを支えたイノセラムス類には,そろそろスポットライトを当てても罰が当たらないと思う.ほとんど見つからないアンモナイト(笑)なんて,層序学的にはクソの役にも立たないしね.

「石炭」

岩石に入れるべきかもしれないけれど,化石に石炭が選ばれて,他の有力候補が涙をのむという展開は面白いと思いませんか?

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思いついたら,また追加するかも.本当は,Karrerulina hokkaidoana とか Bellatudinium hokkaidoanam とか言いたいけれど.あ,岩石に K–Pg 境界の境界泥岩とかもアリだなw

2014年8月17日日曜日

季節感:晩夏

夏の終わり.過ぎ行く夏に思いを馳せつつその陽気の去る前に,ということで(?),同期ほかと BBQ してきた.

昼過ぎからはじめてしこたまに肉と魚介を食べて夕方に撤収してきたのですが,日が陰り始めると,幾分か秋の気配を漂わせる冷たい風が吹きはじめて,夏が終わってしまったことを実感したりなんだりです.うだうだと語り合いながら炭火を囲むと,その暖が恋しいくらい.急転直下でやってくる冬を思いつつ,短い秋の仕事の限界を計算したりとか.

2014年8月6日水曜日

ゆるゆりと大室家

今日でちょっと大きめの仕事が一段落したので,頑張った自分へのご褒美v になもり× 2 です.

「ゆるゆり」 12 巻 なもり

櫻子メインが多くて満足.ひまさく分と京綾分も摂取できたので満足.これで,明日からも戦える(何と?).

おまけマンガは,本当にただのおまけだったので,まぁ.

「大室家」 2 巻 なもり

なんか撫子ねーちゃんの絵柄が丸くほわほわした感じになってない?

みさきちが絡む花子様とご学友の皆様の担当回が好き.撫子ねーちゃんたちも好きだけど.めぐみちゃんの不憫さが.

ところで,撫子ねーちゃんのパートナーって結局,藍ちゃんなんだろうか?個人的にはめぐみちゃん大好きだけど.

「古谷家」は,やっぱり,大室家とは違ってマンガには向かないな,という感じ.

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読册記録書いてないマンガが山ほど溜まっている……

2014年8月5日火曜日

なんなんだこれは……

門外漢な自分が,STAP の件に関して何かを書くことなんて,もう,ないと思っていたんだけれど,想像していた限りの(というか,想像もしていなかった)最悪の展開を迎えてしまったことに,なんというか,遣る瀬ないような,なんとも言い難い感情に押し流されています.

笹井氏を自殺に走らせた,直接の原因なんて本人以外誰にも分からないし,報道を見ると,相当,精神的に参っておられたようなので,うつ病による衝動的なものなのかも知れません.

しかし,笹井氏の死によって,科学的には論文取り下げの時点でとっくに終わった話になっていた STAP 細胞関連の疑義はともかく(何度も書いたことですが,彼女と代理人の弁護士がどんな詭弁を弄そうとも,今後,STAP 様の現象が確認されたとしても,科学の文脈ではあの論文は「捏造」で確定),小保方氏の不透明な採用にまつわる疑惑やら,理研の上層部や著者における STAP の論文に対する本当の認識やら,これだけの疑惑まみれの内容がパブリッシュされるにいたる過程やらの,かなりの部分が闇に葬られてしまった感があります.それに加えて,笹井氏が今後の 10 数年(以上)の研究者人生で為せていたであろう無数の研究の可能性までも失われてしまったというのが残念でなりません.

なんでこんなことになってしまったんだろう.

前にも書いたかもしれないけれど,STAP 現象の検証なんかに,優秀な研究者の時間が削がれていることに憤りを覚えていたりもしたのだけれど,それも,まぁ,あれだけの広報をやらかしてしまった尻拭いのようなものなのだろうか,とか納得しかけていたし,検証結果がでれば,もう,全て決着がついて,粛々と処分が進んでいく,というだけの段階になっていたはずなのに.なんで死者まででてしまったのだろう.

死んだら全ておしまいなのに,笹井氏に限っていえば,この件が大きな傷になったとしても,今後の研究に誰もが期待していたのに,本当に,なんでこんな事態に陥ってしまったのだろう.はっきりいって,こんな程度の捏造で,研究者の命が失われてしまうなんて,あまりにも,あまりにも釣り合っていなすぎるよ…….

http://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/specials/39752

2014年7月31日木曜日

影響は与えることもあるだろう

某女子高生が女子高生を殺害した事件で,わりと好きなアニメが一話飛んだりした今日この頃ですが,皆様,いかがお過ごしでしょうか?

まぁ,そういう事件があった手前,放送する側がどういう対応を採ったところで,どこからかは叩かれるので,世の中の人間の数から考えたら圧倒的に数の少ないアニメファンに我慢を強いようという展開は,予想がつきましたし,それはそういうものだと思います.放送した場合を考えると,それが,ワイドショーに食いつかれたりなんかしたら目も当てられないような状況になるのは,火を見るよりも明らかですし.

こういったときに,なんでこんなことで自粛なんかしなければならないんだ,という感情がファンに生じることは,まぁ,妥当だと思います.僕自身,そういう感情がないか,というと,嘘になりますし,ツイッターやら 2ch やらにも,当然,そういう主旨のコメントが散見されており,そう思う人が少なくないことを感じさせます.

そういうコメントの極左的なものの中に「(アニメなどの)メディアに影響されて○○する人間なんていねーよ!(○○には殺人でもなんでも入れてみて下さい)」という意見がちらほらと見つかりますが,僕個人は,それが妥当な意見かどうかやや疑問に感じます.

アニメでも映画でもマンガでも小説でもバラエティーでもニュースでもそうですが,先の発言の中の○○がポジティブなものであれば,影響を受ける人は多いでしょう.元がサブカルの話題なので,アニメで例を出すなら,「けいおん!」をみて楽器をはじめたという人や,「ちはやふる」をみて(読んで)百人一首カルタをはじめた人などは少なくないのではないかと思います.当然,○○に入るものがネガティブなものになれば,影響を受けてそれをはじめる人は少なくなります.しかし,アニメやマンガや映画の格好いいキャラクターに影響された若年層の喫煙や,青春ものの作品に影響された飲酒のような軽度の法律違反は,普通にあることでしょう.もう少し,ネガティブなものだと,いわゆるヤンキーものと総称されるものに影響を受けて軽犯罪者(予備軍)になった人だって,世の中にはそれなりの数で存在しているわけです.

確かに,なにかの影響を受けたとしても,「殺人とかレイプなどの重犯罪に走る人間なんて居ないんじゃないの?」という考え方は分かります.しかし,自殺報道に対して世界的に厳しい勧告がなされていることを例に出すまでもなく,たとえ,極端にネガティブな現象であっても,メディアが大きな影響を及ぼす例はないわけではなりません(この場合,影響を受けた人に元々自殺願望があることが前提なので,報道などがどの程度,どういう形で影響を与えたのかの切り分けは困難ですし,他者に危害を加えることと自分の命を捨てることとのハードルの高低の問題はありますが,極端にネガティブな事象ですら影響があった [可能性が高い] ことが,根本的な問題だということです).

もちろん,何かのメディアが殺人,レイプ,未成年略取,誘拐事件……などの重犯罪に影響を与えたなんて直接的に分かったことなんて,僕の知る限りないですし(というか,そんなのは犯罪者を出生児からモニタリングしてないと分からないですし),あやふやな感想を元に表現に無用な厳しい規制を掛けるなんていうのは,基本的に論の外だとは思いますが,何かの表現(それが,アニメでも映画でもマンガでも小説でもバラエティーでもニュースでもなんでも)が,ネガティブな影響を与えうる可能性に関して,供給する側も消費する側も忘れてはいけないと思います.大食い番組とか芸人の身体を張った芸とかが,幼い命を奪った例ですら存在することまで考慮すると,過激な表現の取り扱いに関して,気を使うことには,個人的には,どうしても強く反対できないな,といつも思います.

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追記

http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-25816.html

この監督のこの発言に身震いするほど感動した.これが,僕が上の記事でいいたかった理想的な制作者の姿(謝罪は大袈裟だし,いらないけれど).このタイミングでいえるということが,本当に素晴らしい.

こういう発言を見ると,この人の作品をまた見たくなるね.

2014年7月23日水曜日

古生物と萌えの親和性とかアウトリーチとか

世の中では,だいぶ昔から「○○の萌えキャラ化」というものが流行っているけれど,寡聞にして古生物系統のネタが萌え産業にて成功したという話は聞きません(そもそも,こういう「萌え」商売で成功した例があるのか,という話は置いておいて…….あ.艦コレとかそうか).

一部界隈で盛り上がっている某瑞浪博物館イチオシの萌えキャラであるところの某瑞浪ミオちゃんも,盛り上がっているように見せかけて,古生物に興味がある層の中で萌えキャラに嫌悪感を抱かない人々がきゃっきゃと騒いでいるだけに過ぎません.端から見ていて,正直,リアルな意味で痛々しいです.ただ,このキャラについては,このあと話をしたいことの逆をついて「古生物に興味がある少女(JC)」をモチーフにしている分,いくらかマシな展開も出来るかもしれないとも思います.

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結論から言うと,古生物と萌えには親和性はありません.

そもそも,古生物の本質は形態学であって,いわばその「形」に萌える人間によって作り上げられた記載の体系です.一方,いわゆる「萌え」とは,東浩紀氏からはじまるサブカル論の議論を持ち出すまでもなく,「萌え要素」というオタク好みのフォルムに基づく形態記載の体系であると総括できます.ある形態記載の体系を別な形態記載の体系で置き換えることに,意味がないことはいうまでもないでしょう.

船の形態を萌え要素に置き換えた「艦コレ」が,成功した商売でいられるのは,「艦コレ」が「淡いエロを含んだ戦闘ゲーム」という商材だからであって,別に艦船形態のアウトリーチではないからです.しかし,古生物の萌え化は,アウトリーチとして成功しなければ,そもそもする必要がないのです(つまり,萌え化とはちょっと違うけれど,商材として優れていた「恐竜キング」がアウトリーチに果たした効果がどれほどあったのか?ということ).

萌え化ではありませんが「ジュラシックパーク」を見たことが古生物の道を歩むことに強く影響を与えたという狭義の古生物関係者(=研究者界隈)には会ったことがあります.これは,一見,映画という学問から離れたエンターテインメントが大きなアウトリーチ効果を示したように見えなくもありませんが,日本だけで 83 億円(Wikipedia より)の興行収入を叩き出した大ヒット映画に比して,俺集計で 4, 5 人という数字は,本当に「効果」といえるでしょうか?

※なお,余談ですが,この中に現在も狭義の古生物界隈に留まっている人はいません.

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古生物のアウトリーチには,古生物の形の面白さを用いるべきだと思います.古生物の形とは,怪獣や奇怪な生き物が生き生きと蠢いている絵ではなく,実物であり,レプリカであり,写真であり,スケッチのことです.例えば,ティラノサウルスとトリケラトプスが生き生きと戦っている絵に興味をもつ人間よりも,例えば,ヘリコプリオンの化石の形もつ魅力に取り付かれる人間を増やすことが,古生物のアウトリーチではないかと,そう思うわけです.

2014年7月5日土曜日

書きかけの記事

この日記は,思いついた書きたいことを一気に書いてしまうときと,なんとなく書きたい内容を捏ねくりつつ,上手くまとめきらずに書きかけて,何回か行ったり来たりしたあとになんとなくの落としどころを見付けて公開しているときがあります.面白いのは,長い記事はなんとなく一気に書き切ることが多く,短い記事ほどなんだか弄くり回してようやく書き上がることが多いです(一概には言えませんが).逆に言うと,一気に書き上げると言いたいことがとっ散らかって,書きたいものを書きたいだけ書いているから無駄に長い記事になるし,熟慮した結果,端的にまとまるということかも知れませんが,長い記事でも文章的にまとまっていることもあるので,おそらく思いついたネタに対しての結論までの心的距離の問題なんだと思います.

そんなわけで,ここに書こうかなと思いついて,書きかけたけれど,なんとなく落としどころがみつからないまま放置している文章というのがそれなりの数存在しているんですが,そういう記事の中に,いま,書きかけの文章を読んでいても,自分でも何が書きたかったのかがよくわからないものが多々あります.

書きかけの文章でも残っていれば,それなりに推測もつくのですが,ものによっては「思いついたときはドヤ顔で打ち込んでいたんだろうな……(恥)」という感じの妙に凝ったタイトルと,プロットにも満たない思いつきの断片などしか残っていないものなどもあって,大変困ります.特に「ドヤ顔タイトル()」がついているときというのは,思いついたときに「上手いこと言おう」と思って書きはじめていることが想定されるので,大変,痛々しいです.

しかし,個人的には思索の断片を余さず記録しておきたいとは思っているので,そういうものも出来る限り復活させたいとは思うし,まとまっていないぼんやりしたものでも書き残せる場を(自分の中では)用意したりしているので,なんとかしたいなとは思います.

曜日感覚

学生(研究室)〜ポスドク時代は,週という単位がなにかの区切りになるということがないこともあって,大分,曜日感覚というものが失われていました.特に,テレビをもたなくなってからは顕著で,それまであった番組の周期によって得られる曜日感覚(例えば,サザエさんシンドロームのようなもの)も失われたので,全く,曜日というものと無縁の生活を送っていました(とはいえ,ドクター後半くらいからアニメを見るようになって,やや周期は見えるようになっていました).もちろん,週に一日くらいは休む日は作っていましたし(メリハリは大事),ダラダラと研究室に居着くのは,最悪の反面教師を日々眺めていたこともあって,猛烈な恥だという感覚はあったので,ダメ院生の中では比較的,サイクリックに活動していたのではないかという自負はあります.

それでも,曜日という機械的な指標に沿って某かの影響が生活に出るわけではないこともあって,「今日が何曜日か?」と聞かれると携帯電話のカレンダーを見ないとわからない,ということが常態化していました.

就職以降,土日には,職場が(名目上)停止してしまうことから,いくらか曜日感覚が戻ってきた気がしています.例えば,「今日は○曜日だから,この仕事を先に仕上げないといけない」という判断が必要なので,常に頭の隅っこには,今日が何曜日なのか,という意識を残していることが多いです.

……とまぁ,そんな風に,「社会人としての自覚」が自分に根付いてきたな,と自画自賛していたのですが,夏になって出張が頻発するようになってきた結果,そんなものはあえなく崩壊しています.今日も,上司に「明日,これこれの議論をしたいんですが,お時間ありますか?」とか言ってしまい,「なに?俺に土曜出勤しろってこと?w」と突っ込まれるというポカをやらかした次第です.

でも,僕以外にも,この手の会話は(職場内だけではなく)良く見かけるので,そもそも,曜日という機械的に割り振られたものに人間の感覚を意識せずに合わせるなんて無理なんじゃないか,と最近は諦観に満ちているところです.

2014年6月29日日曜日

毎クール末に思うこと

来クールのアニメ一覧をみて,「食指が動く作品がないな〜」とぼやくけれども,結局,次のクールの終わりには何作かは見てしまうという流れが,最近の風潮です.とはいえ,段々と見る作品数は減っているのは事実で,今クールは,結局,9 作品しか……しか?……あれ?

(咳払いをしながら)ともかく,段々とアニメから離れはじめているのは,大学という変わった空間にいたからで,ちゃんと社会生活を営んでいれば,徐々にアニメからは離れていくんだろうなぁ,と寂しさも感じる次第です.

ただ,単に見るアニメの事前選別手段(※)が確立してきたせいとも言える.

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※「ラノベ系はほぼ(自分の好みから)外れるので,よほどいい評判を聞くまで見ない」,「オリジナルは見てみる」,とか.……とはいえ,今期もラノベ原作な「チャイカ」を初っぱなから見ていたりするから,全然,確立していないとも言える.

2014年6月28日土曜日

記憶の断層と無堆積

最近,とみに自分の記憶力が衰えているのを感じます.これでも,昔は近所では頭のいい子として有名で,神童扱いされることがあったくらい,どうでもいいことまで覚えていられる記憶力があったのですが(そして,嫌なことをいつまでも忘れられずにいつまでもくよくよしたり),最近は,ずいぶんとテキトーな記憶力になっているな,と常々感じます.確実に,頭の回転も鈍ってきていて,議論についていけないこともあったり,新規分野の勉強をしていても,本を読んでいてもすんなり内容を理解できないこともしばしばです.そうそう,ここに書いているような駄文でも,昔ほどはすらすらと言葉が紡げなくなってもいます.

記憶に関して言うと,連綿とした記憶が出来なくなりました.ハイエタスみたいなもので,連続的な記憶の中で,特定の一時期の記憶が欠落している,なんていうことが良くあります.また,出来事自体は覚えていても特定の記憶だけが断層に削剝されたかのように消え失せている,なんてことがあります.例えば,とある地質調査の記憶は残っていても,その参加者のうちの一人が,その調査に参加していたかどうか,という記憶がごっそり抜け落ちている,というような……(これに関しては,僕がその人物を大嫌いだったから自己防衛的に忘れているんじゃないかという説が他者から提唱されていますが).

最近は,かなり,こういうことが多くなってきていて,スケジュール帳なしじゃ,近い過去の記憶もあやふやなことがあります.

2014年6月21日土曜日

年齢

昔誰かが「若い頃は基本的に絶好調で,体調が悪いなんて感じることほとんどないけど,年を取ると若い頃に体調不良と思っていたくらいの体調が日常になって,それより悪化して本当に身体が言うことを利かなくなることを『体調が悪い』と表現するようになる」というのを聞いたことがありますが,30 を過ぎて,そこまでではないものの,その言葉の意味を実感しつつある次第です.


2014年6月19日木曜日

分割したはいいけれど

……早くも,向こうにここに書いていいような文量の文章を書いてしまうという体たらくです.

この日記に長い文章とか,真面目な文章とかを書くようになってしまった結果,ブログが全然更新されなくなっていった経緯とソックリですね!一時期,twitter にかまけて,ここに記事を全然書かなくなっていたけれど,twitter からは何となく帰還したけれど,今後はどうなるかしら?

とりあえず,しばらくはあっちにも記事を増やすつもりなので,まぁ.

ひとりごとクリップ

2014年6月17日火曜日

しりょ

どういう過程を経ると人は考えることをやめるのか,ということに思い悩む.考えることをやめる人を見る機会は,いんたーねっつとかのコミュニケーションが発達した結果,格段に増えた.

自分のことでいえば,(肉体的に)疲れていたり,自分の興味の埒外だったりすれば,基本的に思考停止で情報を受動するだけになることは,ままある.じゃあ,思慮の足らない人,考えるのをやめている人は,いつも疲れていたり,その話題に興味がない人なのか,というと,そんなことはなくて,その話題に人一倍興味津々な人たちだったりするのだからわけが分からない.

思慮の足りない人が,必ずしも全てに対して思慮が足りないかどうかは,多くの場合,分からないけれど,少なくとも,全てに思慮の足らない人というのは存在していて,そういう人が,どうやって出来上がるのかというのは,大きな疑問だったりする.

まぁ,そもそも自省することで一般論を見出そうというのがアプローチとして間違っている,ということでもある.

はたらくばかのもんだい

正当に評価されたいんだったら自分の能力・成果の安売りをしなければいいだけなんだけどな,という感想しかありません.安くしないと全く売れないんだったら,高く売れる付加価値を付ける努力をするか,高く買ってくれる人を見付けるか,諦めて文句をいうのをやめるしかないと思うわけです.

売っている側が安売り合戦を繰り返しているんだから,相場が下がるのは当然でしょう,ということ.

2014年6月16日月曜日

ざんぎょーだい

※職場の特殊性とかがあった上での個人的な見解ですよ.一般論ではなく.あと,最近流行りのホワイトカラーエグゼンプションとか,成果主義的な話でもなく.

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現状の仕事に残業代が発生すると困る人って言うのは,一定数存在するとは思うのです.俺とか,俺とか,俺とか,あと,俺とか…….

別に,今の職場がブラックで残業代が発生しないとか,そういうことではなく(ちゃんとした職務命令があれば残業代は発生する.ブラックじゃないかどうかは [発言は省略されました]),自分の中での仕事の裁量の問題です.勤務時間外になっても,作業のテンションが落ちないときに,勤務時間外だからといって残業代が発生してしまったら,とてもじゃないけど気持ちが切れるまで作業を続けるとか出来なくなるので嫌です.

まぁ,研究業務という性質上,仕事(職務)と仕事(趣味)の境界線が非常に曖昧だったりもしますし,お寿司.

2014年6月15日日曜日

おまつり

今の体型からは誰にも信用されないだろうけれど,まだ,J リーグが発足する前の小学生時代(J リーグ発足は小学校 3 年のときくらいだったかな?)からずっとサッカー少年だった程度には,サッカーが好きなんだけど(やるのは今の体型的に無理があるけど見るのは今でも好き),いまは家にテレビがないので,盛り上がりに欠けているところ.

2014年6月12日木曜日

混乱の内訳

なんというか,これまで呼吸しかしてなかったのに,明日から急に光合成もはじめましたみたいな感じです.

動態を固定する仕事と文字通り固結した記録から動態を妄想したりする仕事とを同時に考えるには,僕の脳はスペック不足.

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最近,妙に記事(短文)を書くようになったのは,単なる気分です.140 文字のアレに飽きたのもあったり,140 文字で足りないときに連投するのがバカバカしいと思ったことがあったり,140 文字に呟きたくないことだったり.

娘の家出

まゆちゃんに腹肉つままれて「痛覚なんてあるの?こんな肉のカタマリ」って罵られたい.

……というわけで,相変わらず,志村貴子ブーム継続中です.

まゆちゃんのキャラクター造形,性格,デブ専なところ,本当にすばら!たぶん,過去の志村貴子キャラの中で造形は一番好きかも.キービジュアルのまゆちゃんまじ可愛い.

頭が混乱

11 日間の入院のツケを日々払い続けている今日この頃です.たぶん,退院後に漫談(趣味)が控えていて,そのときに更にお仕事(本業,趣味)をスタックさせたのもまずかった気もします(反省).

そんなわけで,お仕事(本業)だったり,お仕事(趣味)だったり,お仕事(本業だけどエクストラ)だったり,お仕事(本業の準備@休日)だったりで,てんてこ舞いなのですが,それぞれが,それぞれで使う脳と言うか,必要な知識(背景)というかが独立していて,本格的に脳内がこんがらがっています.お仕事(趣味)とお仕事(本業だけどエクストラ)は,自分の職能の範疇なので,苦労は少ないのですが,同時に自分が修行中のお仕事(本業)に重要課題(×2)ができてしまって(これが降ってくることは入院前から知ってはいたんですが……),マルチタスクには対応しているものの低スペックな僕の脳みそがダウン寸前だったりします.個人的には,お仕事(本業)に頭を捻るのは今後展開するであろうお仕事(本業@急ぎ)の面白さを含めて楽しみながら作業できるんですが,なんとなく今は,お仕事(趣味)とお仕事(本業の準備)に取りかかりたい欲が強かったりするので,なんともかんとも難しいところです.そして,お仕事(本業だけどエクストラ)に関連する締め切りも,実は,結構近くに迫ってきていて,やっておかなければならない作業が残っているのも,お仕事(本業だけどエクストラ以外の全部)に取りかかっているときにも気になってしまうのです…….

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混乱ぶりを表現してみた.

2014年6月11日水曜日

ポエム化

という言葉にイラつくのは,僕だけでしょうか?

なんというか,そもそも若者言葉・スラングにおいて「ポエム」という言葉に侮蔑的なニュアンスを漂わせる風潮からして,趣味として詩を書く人間として昔から嫌いだったのですが,最近はいい大人が,様々な事象を「ポエム化」と称してネガティブに発言しているのが苛つきます.

いわゆる「ポエム化」という事象としてあげつらわれるコミュニティーの乏しさをあざ笑っている側が使う表現としての「ポエム化」という語のなんと言う乏しさ.正直,こんな語を使っていて恥ずかしくないのか,と,そういう表現を見かけるたびに目眩を覚えるほどです(目眩の原因は難聴).

共感を誘発するコミュニティーの共通言語なんてものは遥か昔から存在するわけで,それは,広くは世代を代表する歌手の曲でもあり(例えば,尾崎に熱狂した世代とか),世代を代表する小説でもあり(例えば,「なんとなく、クリスタル」なクリスタル族とか,「斜陽」な斜陽族とか),そういうコミュニティーを象徴するような表現に群がって,それに煽動されるようにエピゴーネンを量産する文化なんて,いまにはじまったことでもない,と思うのです.それを指して「ポエム化」なんて陳腐な,(主にネット上の)スラング由来の表現で物事を語った気になるという程度の低さこそが,文化の終焉感に溢れているような気がします.

せっかくだから

北東北旅行とか,道南旅行とかの写真をここに載っけようかとも思ったけど,面倒くさいからと思って放置しているうちに,そんな気分もなくなるという流れ.

まぁ,道南は完全なるプライベートというわけでもないから,そもそも,公開するようなものでもないんだけど.

2014年6月7日土曜日

道南なう

ちょっと道南を巡る旅をしている.ぼっちじゃないよー

2014年6月4日水曜日

率直な感想

※かなりぶっきらぼうな感想であって,意見表明とか,どうすべきかの解決策とかそういうものではないので,スルーを推奨.

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某 STAP 細胞の件,とうとう完全に論文の撤回の方針が決まったということで,関係者各位に最低限の良識があったという結果になって,まぁ,良かったのではないかと思います.

まだ,科学教育を十分に受けていなかった人たちの間では,なんだか,あーだこーだという議論があるのかも知れませんが,今後は粛々と理研内部の処分やらがオープンな形で進んでいけばいいのではないかと思っています.

世の中的には,STAP の実在の検証が云々とか,残っている捏造や新たに浮上した捏造疑惑に関する再審議を云々とか,そういう意見もあるようですが,私は,そんな下らないことに(大概の場合,全然無関係な)真面目な研究者たちのリソースを割かせるということには大反対です.なんで,チョンボした人たちのために,将来,重要な研究をする可能性が高い人たちの限られた時間が消費されなければならないのかと…….

少し前までは,この件が,科学という行動,思想,ものに対する非・科学関係者にちょっとでも触れられる,理解されるきっかけになればいいかもしれないと思いましたが,逆に誤解をもっと広めたような結果になって,なんとも言い難い大きな無常観に苛まれています.もー,どーでもいいや.

今回の件に関して,世間の醜聞の究極系であるところのまとめサイトですら扱っているところがあんまりないということが,世間の興味という意味でも終わった話なのかもなとも思う.

2014年5月28日水曜日

なんか

今日,病院でチェックしたら,いつの間にか,耳の調子がやや回復していた.退院時には, 8000 Hz が  55 dB しか聞こえていなかったのが,35 dB まで戻っている模様です.

まぁ,時間帯やら体調やらによって耳鳴りの様子が違ったりするので,単純に調子がいい時間帯に当たっただけかも知れませんが,取り敢えず,ひと安心.

2014年5月25日日曜日

あれ?

なんか,2 時間ほど前から,唐突にここ数日なくなってた強めの目眩が復活したような気が…….

今日から,薬の組み合わせが変わったことと関係があるのかなんなのか.まぁ,ぶっ倒れて病院行ったときみたいな強さでは全然ないので,取り敢えず,静観しつつ,早めに寝ようかと思います.おやすみなさい.

2014年5月23日金曜日

退院のご報告

皆様には,多大なご心配とご迷惑をおかけしましたが,本日で無事退院いたしました.

現状,聴力の大部分は回復し(先日書いたとおり 8000 Hz はダメっぽいです),若干の目眩(ときどき立ちくらみが起こる程度)が残っているのですが,まぁ,日常生活には支障がない程度です.目眩も医者のいうことを信じるなら,2, 3 日で回復するということなので,土日はゆっくり過ごして,来週から本格的に復帰しようと考えているところです.

入院中は,職場の方々に加え,彼女や大学の後輩夫妻や指導教官殿や師匠(元々,来札&打ち合わせ予定があったため)まで,本当に多くの方にお見舞いに来て頂いて,人の暖かさに感動した次第です.親は来なかったけれど(笑).親の名誉のために言っておくと,来ようとしていたのを,僕が,わざわざ交通費をかけて来なくていいと止めたからですが.

10 日強もベッドの上からほとんど動かない生活をしていたせいか,思いのほか体力が落ちているので,日常生活でもすぐに疲れてしまいますが,これも 1 週間くらいで回復することでしょう.

2014年5月20日火曜日

途中経過

入院も一応,後半を迎えています(多分).

現状,8000 Hz の音の難聴と(軽い)目眩以外の症状はほとんどなくなり,(やや予定より遅れているとはいえ)順調に回復している模様です.目眩が長引いているのが,なんとも嫌な感じではありますが,MRI で脳みそ調べても問題なかったそうなので,そのうち消えるとかなんとかいわれているので,一応,安心して構えています.難聴は難聴で,趣味(音楽)の上では困るのですが,目眩に関しては本業(地質)にもろに影響する死活問題ですので,完全になくなってもらわないと困ります.

難聴に関しては,なんとなく 8000 Hz 帯の音感は円環の理に導かれた感があります.初期(完全に死んでた)よりは確実に回復しているようなのですが,ここ数日,回復が停滞していて,どうもそのレベルで落ち着きそうな雰囲気があります(現在,50〜55 db 付近 [数値の上では完全に難聴].当初は 70 db 以上の音も聞こえていなかったので,これでも回復してはいる).

とはいえ,他の高さの音は正常値に戻ったので,運が良かったと言えるでしょう.当初は 2000 Hz という(ヒトが)一番敏感な音のあたりも弱化,4000  Hz あたりはかなり死んでいたので,そのあたりはだいぶよくなっています.特に 4000 Hz は,当初,70 db も聞こえていなかったのが,今はほとんど 0 db あたりまで回復しました.

基本的に,高音の感覚器はイカれやすく治りづらいらしく,場合によっては,継続治療(通院)になるかもしれないとかなんとか.高酸素環境治療とかの話までされているところです.

正直,音の一部が円環の理に導かれてしまったのはショックなのですが(あとずっと鳴っている耳鳴りがウザい),それもまた運命なので受け入れましょう.

今後,学会等で,耳に痛い質問などをされたときには難聴をいいわけに質問を無視していく,など,積極的に活用して行こうと思います.

2014年5月15日木曜日

だるだる

だらけているという意味と,薬漬けで全身倦怠感に見舞われているという意味で>タイトル.

入院 3 日目を経過して,早くも病院食の味気なさに辟易しています.常時,軽い車酔いのときのような気怠さとムカつきのような症状があることを除けば,基本的に体は元気なので,気楽に病院生活を送っております.まぁ,時折,病院を抜け出してタバコを吸いに行くくらいの不良患者をやっているような感じです(もちろん,許可は得ていますよ).

症状は,改善しているようなしていないような,一進一退の状況です.一応,毎日検査している耳の状況は,漸次回復傾向にあるようなので,完全に回復するかどうかは分かりませんが,いい方向に向かっているのは事実なようです.相変わらず,音楽を聴いているときには,高音部の違和感は残っているのですが…….

2014年5月13日火曜日

にゅういん

結局,入院することになりました…….

昨夜から尋常じゃない目眩に襲われていたので,仕事を中途退場して大きい病院にやってきたら,診療後,即入院という結果になってしまいました.せいぜい,2, 3 日の入院かと思いきや,意外と長く,10 日ほど入院することになります.

まぁ,ここ数年,こんなに長く安静を強いられることなんてなかったので,休暇のようなものだと思って,ゆっくりしたいと思います.

2014年5月11日日曜日

漸次悪化

なんか,平衡感覚がおかしくなってきた気がします.薬も飲んでいるのですが,あんまり効いている実感はないです.

まっすぐ立っていると,身体が左に傾いているような感覚があったり,やや車酔いに近い症状が継続的にあったりします.この平衡感覚の狂いが目眩の一種だとすると,なんか名前のついた病気の可能性があるんじゃないかと思いつつ,明日からの出張のキャンセルは難しいので,金曜日にちゃんと大きな病院に行こうかと思った次第です.

耳が聞こえなくなった話

わたくしごと,難聴という診断が下された今日この頃,皆様におかれましては健康的な生活が送れておられますでしょうか?

これも,さむらごーち的なネタだったら面白かったんだけどねー.

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4, 5 日くらい前から高音の強い耳鳴りとその 5 オクターブ下の低音の小さい耳鳴りがはじまって,GW の疲れが溜まっているだけかとも思っていたのですが,なかなか耳鳴りがやまないので,自宅から歩いて数十秒の耳鼻咽喉科(住んでるマンションの裏)に足を運んでみました.

そこで,普段,健康診断で行う聴力検査の上位互換のような聴力検査を行った結果,右耳の高音部がガッツリ逝ってることが判明しました.検査結果の音程(ヘルツ数)ごとに並べたグラフをみると,右耳の高音部がガッツリと欠落していることがよくわかります(現状,可聴域ギリギリの高音部に関しては結構なデシベル数の音も聞こえていない模様).確かに,思い返してみれば,耳鳴りがはじまってから明瞭に右耳では音圧を正常に感じられなかったので,なんとも納得のいく結果です(診断後に自覚的になっているだけという可能性もありますが).

とりあえず,一通りの聴力検査と鼓膜の検査をやったものの,正確な診断は,町医者の設備じゃできないようなので,(初期の治療が重要ということで)出来るだけ早く大きな病院に行って精密検査を受けるように,とのこと.しかし,あいにく来週は,すでに出張が入っていてそれどころではないので,取り敢えず,ステロイド剤を処方されて,一週間は経過観察ということになっております.まぁ,週の後半に休みを取って大学病院レベルのところに行くべきかな,とは考えていますが…….

町医者(話ぶり他から俺の中では無能認定)の要領をえない話を聞く限り,耳が完全に(永久に)逝くようなことは稀らしいのですが,基本的に難聴というのは原因が良く分からないので対症療法しかないとかなんとかいう話です.久し振りに,対症療法を軸に発展してきてサイエンスをないがしろにしている医学という分野の闇に打ち当たる結果に,やや愕然としつつも,取り敢えず,脳みその中身の信用できない医者の話をこれ以上聞いてもどうしようもない,ということで,(この医者はとっとと切って)早めに大きな病院に行こうと決意した次第です.

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現在の症状としては可聴域の高音部がぽっかりあいているような感じです.高音楽器の倍音が聞き取り辛くて音圧が足りないように感じます.一方,倍音のない機械的な音だと,高音でもあんまり以前との差を感じません.しかし,楽器の音は明確に音圧に欠けて聞こえるという感じです.聴覚障害において,音の聞こえ方の伝達・診断云々は難しいという,さむらごーち騒動の際に出ていた話を,こんなにすぐに身を以て体験する羽目になるとは毛ほども思っていなかったです.ええ.

いまのところ耳鳴り(内耳の物理的原因あり)が邪魔をして,高音が聞こえない状態なのか,高音部が欠落した結果,その補償的に耳鳴り(脳の錯聴)が起こっている状態なのかもわからないという状態でして(医者の要領を得ない話を聞く限り,後者の認識のほうが近いみたいだけど),治る可能性とか,聴力は治らなくても耳鳴りがなくなる確立とか,現在欠落している音域以外への影響とか,まったくわからない状況です.自分の中では,最近感じはじめている不調(先日の蜂窩織炎とかもひっくるめて),30 代になって身体が壊れはじめた,という認識なのですが,まぁ,当たらずも遠からずというところなんじゃないかと思います.

いまはまだ,精密検査も正式な診断も下っていないうえ,本業的には耳が逝ってもさほど影響がないので(厳密には,工事現場系に入れなくなる可能性はあるのかな?),楽観的でいられているのですが,永続的に右耳の高音部が欠落したら,趣味=音楽な人間としてはヘコむなぁ,と若干メランコリックな感想も抱きつつ,DTM で色んな音を作って,左右で音を聞き比べて記録する遊びにハマっている程度には元気です.

でも,30 年以上親しんできた音楽を元のようには感じられなくなったら嫌だなぁ……

2014年5月1日木曜日

コメント

コメントなんてついたこともない,内輪ですらない,ほぼ誰にも見られていない,僕の記事捨て場にコメント欄を設置していることが,何故か唐突に恥ずかしくなったので,コメント欄を閉鎖することにしました,という報告です.

目標達成とか 11111 日とかの話

以前,こんな記事を書きました.要は,生まれてから何日経ったのか(日齢)の話なのですが,そのときに「次のキリ番的な日齢である 11111 日には働けているといいなぁ(要約)」というようなことを書いていて,その日(既に 2 ヶ月ほど前の 2014 年 2 月 9 日なのだけど)には,働けていたなぁ,ということに気付いたので,一応,メモっておきました.働けていたとはいえ,就職一年目ですけどね…….

ちなみに日齢の計算はこちらで出来ます.

ちなみに,その 11111 日目は twitter によると「ウィッチ☆アクティビティー」でノリノリになりながら,表紙絵(新規書き下ろし)のためだけに高橋葉介のマンガを買って,休日を満喫していた模様.たぶん,駅前出ているので宮越屋あたりで 2〜3 時間,仕事(趣味)もしていたかと思われます.

2014年4月29日火曜日

町蔵風味

最近,久し振りに町蔵に耽溺したので,町蔵風味の文章を書いてみたけど,二晩明けて読んでみると,全然,町蔵ではないな.どちらかというと超絶劣化ジョイスというか意識の流れ的な.

性的な匂いを漂わせ過ぎなんかな.そもそもの性的嗜好の問題とかではない(はず).

2014年4月27日日曜日

陰鬱な夢想

最近,更新が滞りがちなのは,忙しいということもあるのですが,リアルが充実している結果,自分がダウナーモードに突入していることが大きな原因です.なんと言うか,文字を書いていても,陰鬱な気分に支配されてダウナーなことしか書けなくなっているので,書きかけの鬱々とした文章が目の前にいっぱいです.

こういうときは,大抵,リアルな世界が過剰にうまくいっているので,いたずらに死んでみせたくなります.昔から,気力が溢れてきて,色々,身の回りの物事が上手く回って,自分でも調子づいているときに限って,メランコリックな,といっても気力が湧いているので「鬱」とかではなく,精神面が暗く重くなっていくのは習い性なのです.基本的に,破滅願望が強いんですね.積極的なペシミストと言うか.オーバーヒートする前に,それを避けようとするような自己防衛のような気もしますが.

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 簡単な朝食兼昼食をとって、気晴らしに外に出ようと思っても、なんとなくふらふらと車道に飛び出してみたくなったり、高いところに登ると落っこちてみたくなったり。当然、死にたくなんかないので、そんなことは思うだけでしないけど。なんとなく喫茶店に入って、PC にパチパチと英語の文章を打ち込みながら、緩慢な自殺とか嘯いて、気分が悪くなるまでタバコをふかし続けて(気付いたら、タバコが一箱空っぽで)、必要な文献のコピーを職場に置きっぱなしだったことを思い出して、ぐらんぐらんになった頭のまま、パッパラパーで家に戻ってくる。結局、家でも、また、仕事(趣味)をすると、意外と快調で、また、陰鬱な気分になる。一息ついて、夕飯を作っていると、切り刻む材料と一緒に手まで刻んだら面白いかなとか考えて、自分の肉で人肉シチューを作るグロテスクな想像をしていたら、親指を誤って切りそうになって、急に怖くなってしばらく呆然としたり、あやうく人肉シチューな現実になりかけたことに気付いて、おかしくて、一人で大爆笑して、一頻り笑って落ち着いたら、材料をぱっぱと切り刻んで鍋にぶち込む。ラジオを垂れ流しながら(自分の肉ではなく、牛肉の)シチューを煮込み、今度の休みの恋人との旅行中にふたりで崖から滑落してぐちゃぐちゃの肉塊になるなんていう自分たちの姿を想像したり(心中願望でもあるんだろうか?太宰治は好きなんだけど)、性交の最中に恋人を縊り殺すことを想像したり、リョナ趣味的に、殺害した恋人を美しく残酷に飾り付けたあとに自分の頭をショットガン(どこでどうやって入手するつもりだろう?)で吹っ飛ばすなんて気障ったらしい想像に赤面してみたり。そんな想像をしながら、いつの間にか出来上がった、よく煮えたシチューを白飯にぶっかけて、それをスプーンで口に運びながら、動画サイトで無料配信されているアニメを眺めると、話が飛んでいて、先週の配信期間に見逃していたことに気付いて嫌になって、課金してまで見る気も起こらないアニメを見るのをやめて、オーメンの DVD をかける。
「オーメンは、なんで2作目以降グダグダになっちゃったかなぁ」
 とか、画面に向かって呟きながら、時計を見ると、午後 8 時。午後 10 時じゃないから、「じゅうじか(野狐禅)」をかけて、ノスタルジックなセンチメンタルに浸る気分にもならないで、電子井戸端会議に「大事なファイルをクラウドに放り込んでおくのを忘れてヘコむ」なんて書き込みをして、誰に向けたわけでもない「今日は仕事をしない」宣言を発して、また、オーメンの画面に戻ると、ちょうど、墓の中の犬の骨が暴かれたシーンで。何度みても快感なカタルシスを得たところで、未だ物語が終末へ向けて進行中のオーメンの画面をぶった切りつつ、「そういえば、『人類は衰退しました』の不吉な黒い "タイムパラドッグス" って、ダミアンの黒い犬のパロディーなのかな」とか、どうでもいいことを思いついて、グーグル検索をしてみるけど、それらしきものはなにも引っかからなくて、「これに気付いたのって俺一人なんじゃないか」なんて妄想してみたりもするけど、冷静になるとそんな阿呆なことはなくて、こうやって、世界は陰謀論に埋もれていくのだ、なんて、嘯いてみて、食後のタバコを一服。
 人恋しくなって、物理的に遠距離な恋人に連絡したくなって、スカイプを起動して、恋人の顔を見たら少し元気になって、2 時間くらい陽気におちゃらけて道化てボケて、なんだか良くわからなくなって、今度の旅行の話をして、旅行が楽しみになって、旅行までは無事に生きようとか思って、北部北上の付加体に思いを馳せて、布団に潜り込んで眠りにつく。そんな私小説というフィクション。

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どっとはらい.

2014年4月12日土曜日

珍しくもない特異性

語るに落ちたとか言って,もうこの話には触れないとか言って,どっとはらいとか言って,どんぴこからりんすっからりんとか言って(言ってない),でも,しつこく,最後にこの辺にだけは触れておこうかな,と,某小保方女史その人と,その人に対してなされた人物評に対して,思うことをメモ書きしようかと思う.こんなにこの件に関して拘ってしまうのは,俺が彼女に惚れてるからなんじゃないかと勘違いしてしまいそうだけど,そんなことはないです(笑).

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そういえば,余談だけど,STAP 細胞の論文の第一報が入ったときに,上司と昼飯を食いながら,一頻り STAP 細胞の研究の話題で盛り上がったあとに,「あの子,ちょっとタイプなんだよ」という上司に「えー.趣味悪いっすねw」という返事をしたことを思い出したり…….

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一般,というか,ワイドショー的な感想の多くは(少なくとも僕にとっては)見るに耐えないものなので,ほとんどサーチしていないのですが,僕の周りの,大なり小なりサイエンスに関わっている人の反応は総じて,彼女に関して「なんなんだ?この特異な存在は!?(特異にはご自由に別な単語を当てはめて下さい.厚顔無恥でも,政治家的でも,劇場型でも)」という反応に終始しているように思います(当然,彼女に対するコメントを全て拾ったわけでもないですし,彼女自身について何かを知っているわけでもありません.むしろ,彼女を「特異な存在だから仕方がない」と黙殺してしまいそうな現在の風潮に対して感じる違和の表明でもあります).

僕も,確かに,論文発表から今日に至るまでの行動から透けて見える彼女という存在は,過去に,こういう規模のメディアまで巻き込むような「騒動」を引き起こした例はない,という意味では,特異な存在だと思います.しかし,それをもって,彼女が「他に存在し得ないような唯一無二の特異性の巨人」であるとは,ちっとも思えません.少なくとも,僕の乏しい人生経験で出会った人間の中に(そして,それはときに僕自身の中にも)プチ小保方的なものを見たことはあるし,世の中に永劫出ることはないであろう,小保方女史よりも「巨人」とか「神様」とかいう名前を冠するにふさわしいような奇特な人物に出会ったことがあります.もし,そういう経験を持たない方が多いのだとしたら,僕は,なんて不幸な人生を送ってきたんだろうと嘆くところですが,通常,こういう特異性を孕む人物は,その特異性故に社会に黙殺され,スターダムにのし上がれないのであって,仮に,不運にも出会ってしまったところで,僕みたいに,自分がそういう人物に受けた被害を毎日数えては恨みを募らせるような陰湿な人間以外にとっては,あっけらかんと忘れてしまうような出来事であるだけなんじゃないかと思っています.

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ちょっと例え話というか思い出話風のフィクションを語りましょう.

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人より,「栄誉欲」の強い人は居ます.そういう人が研究に携わることも,当然あるでしょう.僕のであった人の中にも,そういう人は居ました.自分が面白いと感じたからとか,自分が解き明かしたいものがあるから研究をしている,という(たぶん)普通の感覚ではなく,「これを解き明かしたら自分がスーパーな人材になれる」という感情を研究の動機に置くような人物です.「〜ような人物です」なんて,他人事のように書きましたが,たぶん,これは,自分にも少なからずある感情だとは思います.ちょっとでも名前の通った雑誌に論文を載せたい,尊敬する研究者から激賞されたい,常識を覆すような発見をしたい……流石に,これらの感情を持ったことのない人なんてほとんど居ないのではないでしょうか?それが,研究に影響を与えたらお仕舞いですが,動機の隅っこに転がっている分には,エンジンとして働くこともあります.

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「研究者という自分」に際限ない自己愛を表明するような人物と少し関わったことがあります.彼は常に,「研究者を名乗っている自分」に酔っていて,「研究をしているというファッション」を日常的に纏っている,という風に,僕の目には映りました.手を動かしたり実験に打ち込んだりする姿よりも口を動かしたり,本を抱えたまま眠りこけていたり(そもそも「起きている」ことが苦手なのか,午前中に姿を見たことがほとんどなかったような……/笑),果ては,研究者にとって心臓のような「研究テーマ」がみつからない,自分の研究(存在)は社会から疎外されているなんて嘯いて悦に入っていました(本当に彼が空っぽだったのか,「社会的な要請と自己の欲求の矛盾」を演出することで自分を大きく見せようとしていたのかは,未だに僕には分かりません).浅く薄い付き合い故,彼が彼自身をどう評価していたのかを僕は聞くことはありませんでしたが,(僕を含めて)周囲は彼を冷めた目で眺めていたことを良く覚えています(眺めているどころか,裏でネタにしていたくらいです).

彼の消息を,僕は知りません.一体,どこでなにをしているんだろう?彼がもし,新聞で大きく取り上げられるような発表(捏造とかでなくとも)を成し遂げていたら,どうなっていたんだろう?そんなことを,「キラキラ輝いている研究者としての私」とか,「研究から遠ざけられている,研究を否定されている可哀想な私」とか,なにかがある度にボロボロの演出と演技をする小保方氏を見ていて思いました(彼女を「役者だ」なんていう人も見かけましたが,大根もいいところだと思いますよ.そういう冗談だ,ということは置いておいてw).

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もっと,常人でも陥りやすいのは,研究に潜む罠というか闇というか,とにかく,悪魔の誘惑にも似た落とし穴です.この辺りは,僕が言うまでもなく,多くの人が指摘するところでもあります(例えば,前の記事でも紹介した栃内先生の記事の後半余談部).これに「栄誉欲」なんかが絡んで来てしまうと,もう…….

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ヒスを起こして論理が破綻する人間,自分のキャラクター(容姿でも性格でも)に乗じてトラブルをうやむやにしてしまう人間,言い訳のうまい人間,追いつめられてとんでもない行動を起こす人間,自分を守るためにならなりふり構わない人間,無茶な言い訳だと自分でも気付けない人間……こういう人は,どこにでも居るものです(もしかしたら自分の中にも?).

そうそう,無茶な言い訳といえば,厳しいことで有名だった元所属研究室のゼミ発表の当日,準備ができなかった言い訳に「さっきトイレに入ったときにプレゼンデータのは入っていた USB を便器に落として流した」なんていっていたやつも居たっけな,なんてことを思い出してしまいました.

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渦中の人物は,結局,珍しくもない特異な人物であったとしか僕には思えません.いや,尖りきった真摯さ清廉さを(少なくとも研究環境に置いては)発揮する研究者という人間集団の中では,あまりに「普通」なありふれた人間だったのではないかとも思うのです(だからダメなんですけれど).

疑問として残るのは,そんな普通な人が,いかにしてあそこまで昇り詰められたのか,という点ですが,そこは,先述の研究に潜む魔が,本人だけではなく周囲を巻き込んでいってしまった結果(とその末の大破局)なのではないかな,と想像します.

書いてしまったものの,なんとも身もふたもなく,なんとも空しく意味のない空疎な文章になってしまった.まぁ,原因は,このことが切っ掛けで思い出した,僕の出会ったトンデモ人物伝に筆が奔ってしまったせいでもあるのですが…….反省.

2014年4月9日水曜日

語るに落ちた

……というのが,まさに今の現状ではないかと思います.はい.STAP 細胞の話です.

STAP 細胞に関しては,以前,触れた手前,某かの文章を綴ろうかなと思わないでもなかったのですが,僕が言いたいことは,僕以外が散々言ってくれているし,この日記の読者層的に釈迦に説法にしかならないので,やめておきます.ついったーの TL から窺い知れる会見の様子を想像しただけで,本物の会見の様子を確認する気も起こりませんし.

まぁ,僕がコメントしたいこともこんな感じです.ね,語るに落ちてるでしょ?

あと,栃内先生のブログの記事も挙げておきます.

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今後展開できる可能性がある話としては,「司法を科学に持ち込む話」とか,「科学倫理(サイエンスのルール)を一般人に啓蒙しよう」とか,「サイエンスという信用取り引き(言い換えると性善説)への問題提起」とか,この辺なんでしょうけれど,どれも僕にとっては食指の動くようなテーマではありません.この中でも,僕の(仕事上の)テリトリーに入っているアウトリーチに関わるであろう「科学倫理(サイエンスのルール)を一般人に啓蒙しよう」という部分には,思うところがないではありませんが,この部分を理解できていないから一般人は一般人なのであって,ここを引き上げるのはアウトリーチの範疇を越えているし(いうなれば,高等教育の範疇で,既に一般人になった人に,サービスとして行うことではないのです),ぶっちゃけ,そんな労力は研究者には求められません(研究者のお仕事は研究です).

どっとはらい

2014年4月6日日曜日

咳をしても一人

咳は出ていないんですが……(ただし,タバコの吸い過ぎによるものは別).

私の一人暮らしも,かれこれ 13 年目になるわけですが(途中,一人じゃなかったこともあったので,正確にはもう少し短い),病気に罹ったときの不便さに慣れることはありません.家族(親)って,無償で面倒見てくれますもんね.こっちが何も返さなくても(下衆).

かといって,結婚したいとか,メイドが欲しい(某知人風に)とか,心の底から思いませんけれども…….

一人で,なにもできないまま死んだとするなら,それはそれで,それが,私にとっての生物的な寿命だと思って受け入れるだけですわ.と,このへんの偏屈さは尾崎放哉的なのかもとタイトルに回帰しておしまい.

2014年4月4日金曜日

ほーかしきえん

先日(4/2),午後あたりから職場で妙な寒気に襲われつつ,単純に暖房の効きが悪いのか,席替えのせいでクールスポットに嵌ってしまっているのか分からないなぁ,と思いながら,特段,気にもせず仕事に集中していたら,午後 4 時を回る頃に,猛烈な悪寒に襲われて,なんとか終業時間まで耐えたあと,定時帰宅して布団に倒れ込みました.

次に目が覚めたのが,午後 9 時過ぎ頃でした.妙に体が熱くて,その割には汗が出ておらず,脳がクラクラする割に,風邪の諸症状がなく,「なんなんだ,これは」と思いながら,体温計で熱を測ってみると,40.6 °C という高温で驚愕しました.信じ難い数値に,何度か体温を測り直してみましたが,何度計っても数値は 40.5 °C 前後でした.しかし,高熱とそれに付随すると思われる症状(悪寒,寒気,関節痛など)の他にはなんの症状もなく,取り敢えず,熱を冷ますことを考えて,スポーツドリンクを飲んで,布団にくるまって過ごしました.

翌日(4/3),目が覚めて,体温を計ると,やや低下しているものの,未だに 39.5 °C 以上の高熱であり,やはり,症状は熱以外にないものの,熱のせいで頭がパッパラパーになっているので,職場に病休の旨を報告し,近所の内科へとふらふらしながら向かいました.

そんなわけで,病院にて「熱が 39 °C 以上あるけど,他の症状がない」と告げ,不審そうな表情をされながらも,取り敢えず,体温を測られ(このときでも 39.7 °C),インフルエンザと溶連菌感染症の検査を受け,一通りの診察をされて,結局,「ちょっと喉が腫れているようにも見えるけど,煙草を吸っているなら普段でもこのくらいなことはあるという程度だし,ずいぶん熱が高いけど,いわゆる風邪なんだろうと思う」という医者自身が腑に落ちないという感じの表情のまま診断を下されて(何度も,「他になんか症状がないか,無関係そうなことでも何でもいいから」と聞かれたのですが,そのときには後に気付く異変に気付いていなかったので,答えられなかった),帰って薬を飲んで寝ました.

昼過ぎごろに起きると,大量に汗をかいていて,解熱剤のおかげか熱も 37 °C 代後半まで下がっており,熱以外の症状が本当になかったので,だいぶ,頭もしっかりしてきて,色々なことに思考が巡るようになり,栄養のあるものを食わないとと思い,近所のスーパーに買い出しにいって,親子丼を作り,食ってまた寝ました.

眠りについた時点では,このまま熱が下がれば,明日には職場復帰できるなと考えていたのですが,ものすごい悪夢にうなされて目が覚めると,また,体温が 39 °C を越えており,頭が朦朧としていて,「あ,これあかんやつや」と気付きました.

起きた時点で,相変わらず,猛烈に汗をかいていて,流石に自分でも自分の悪臭に嫌気がさしたので,とんぷくの解熱剤を飲んで,落ち着いてからシャワーを浴びようと,服を脱いだときに,自分の右足のすねが異常なほど腫れていて熱を持っていることに,はじめて気が付きました(だって,痛みも何もなかったんですもの).今朝,医者から散々「無関係と思ってもなんでもいいから,なんか症状ない?」と聞かれていたこともあって,「もしや,これが原因か?」と思い当たったものの,その時点で,時刻は午後 8 時過ぎ,医者はとうに閉まっている時間なので,どうしようもなく「まぁ,ここまで丸一日以上放置していて,熱以外の症状がないんだから平気だろ」の理論で,翌日以降に医者に行くことにして,その日は,寝てしまいました.

翌朝(4/4,イサコ爆誕),スッキリした目覚めだったので,「お,これはもう大丈夫なんじゃないの?」と思い,念のため熱を計ると,39.8 °C という絶望的な数字で愕然としました.アレですね,高温が続いて体が慣れている状態ってやつですね.そんなわけで,また,職場に休む旨を伝え,昨日の病院へ向かいました.

病院に着くと,昨日,応対してくれた看護師のおばちゃんが「あれ?なんでまたきたの?」的な表情をしていたので,右すねの状況を見せつつ,「昨日,帰ってから気付いたんですが,熱と関係があるかもと思って……」と説明をしかけていたら,「なんでこんなになるまで放っておいたんだ!」的な対応をされ,やや焦りを覚えつつ診察を待ちました.診察した医者曰く,「これは,蜂窩織炎だと思うけど,皮膚科の範疇だから,僕には判断できないので近所の○○先生に紹介状を書くので持っていってみてもらって」ということで,近所(歩いて 1 分くらい)の皮膚科へと向かうことになりました.

で,その皮膚科で,正式に蜂窩織炎という診断が下され,今に至ります.取り敢えず,自分の不調の原因が判明したことと,熱が下がって体力が戻れば職場復帰していいということなので(完治するまでは 1 週間くらいかかるそう),ひと安心です(とはいえ,これを書いている現時点で体温は 37.8 °C あるんですが,本当に熱と患部の鈍痛以外の症状がないので,なんだか妙な感じ).

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【追記(4/6)】

4/5 に皮膚科で血液検査の結果を聞く.

血中の細菌濃度(?)の上では,入院治療を勧める数値のギリギリということであったものの,諸々の事情(一人暮らしだから入院準備とかしたほうがよっぽど体に負担がかかる,とか)と,「まぁ,若いから大丈夫でしょう.無理はしないでね」ということで,通院治療に.

既に 3 本も抗生剤の注射をぶっ込まれているおかげか,熱は 37 °C くらいまで下がっているけれど,(たぶん,これまで熱が高すぎてあんまり意識していなかったせいで感じていなかった)患部の痛みがやや強くなってきた気がしているなう,です.

2014年3月31日月曜日

脅威の更新頻度

なんで,こんなに更新頻度が上がっているかというと,リアル生活で追いつめられてくる程,駄文欲が増すからです.あと,生活のペースが掴めるようになってきたというのもあるかも知れません.

多分,新年度とともに,また,更新頻度が低下していきますので,悪しからず(虚空へ向けて).

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【付記】

いま,確認したら,こんなに更新頻度が高い(8 article/month)のは,2011 年 3 月以来でした(10 article/month).この月は,忘れもしない震災が起こった月で,震災で生じた「暇」を潰すのと,記録を残す目的で色々記事を書いたので,イベンティックなものだとすると,その前は,2010 年 7 月(11 article/month)になります.それ以前は,恒常的に毎月 2 桁以上の記事を書いているので,2010 年の夏ごろが,バウンダリーになっている模様です.ええ,D3 の夏ですね(ニッコリ).

この日記の更新頻度を Twitter の開始と関連づける説もありましたが,僕が本格的に Twitter をはじめたのは,2010 年 4 月末(仙台移住を期に開始)なので,直接的な関連性は見出せませんね.

年度末雑感

現在の職場で働きはじめて,今日でちょうど 1 年目でした.

年度末ということで,大幅な人員の入れ替えやら,席替えやらがあって,今日は朝から晩までずっと席の引越し作業に明け暮れたのでした.問題は,朝の 9 時から 12 時間(昼休憩 1 時間)かけても,6 割がたしか片付いていないということなのですが,僕の元の席(4/1 付けで着任する人の席)からは,全ての物品を撤去できたのでいいことにして,(疲れた上に風邪気味で体が重いので)帰宅しました.

しかし,実感として,1 年という時間が経ったとも思えないくらい短く,逆に,1 年という時間とは思えないくらい,職場に馴染んでしまっている気がするのは,僕がふたつの意味で年を取ったということなのだろうと思います(馴染んでいる件に関しては,職場があまりにも院生部屋の空気を醸しているからのような気がしますが……).

3 月は別れの季節でもあり,自分の蔵書が増強される季節でもあります.1 年という短い期間とはいえ,非常にお世話になった上司の方々が何人か退職されたりと,寂しいこともありますが,その分(?),自分の周りの本の山が斜面崩壊を起こしそうな程度に増えたりと,なんだか妙な気分です.

なお,本年度末で,自分の所属する研究グループは退職される方と,人事異動で出て行く方を含め,人員のほとんどが入れ替わるという,なんとも大胆な人員転換が行われてしまったので(流石に僕は 1 年目なので異動しませんが),明日からは雰囲気がガラッと変わってしまうということで,期待と不安でドキドキしている現状です.しかし,上司が(直属の人に限れば)全員,同じ大学の同じ学部の同じ研究科の同じ講座出身って,僕はどうしたらいいのでしょう?(苦笑)(なお,直属の人に限らなくても研究科までは,ほぼ全員一緒な件).

なにはともあれ,また,次の 1 年を頑張ろうと思います.今年度よりは,ペースも掴めて,仕事(本業と趣味)も捗ると思いますし…….

2014年3月30日日曜日

百合幻想

「放浪息子」を読んでいて,ふと思い出したこと.

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女装欲なんて持ったことはないし,お祭り的なハレなハイテンションでのお巫山戯の女装くらいしかしたことはないけれど,もし,自分が女装できるくらい「可愛かったら」,女の子の格好をしてすごく可愛くなりたい,という欲求は分からないでもない感情だと思います.おそらく,それは,もし,自分がイケメンだったらあーいうファッションをしたいとか,自分がもっと華奢だったらあーいう格好も似合うのかもな,というファッション誌を眺めつつ憧れる感情とか,そういう感情に近いと思うからです.まぁ,いまではファッションに無頓着なおっさんになってしまい,そんな感情とも無縁にはなっているのですが(ファッションは,自分のサイズに合うかどうかが最重要事項!).

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それとは別に,自分が「女の子」になりたいと思ったことがあった,という事実を,唐突に思い出しました(ゲイ話とか性同一性障害話とかではないので,BL 展開を期待している腐った人は読まなくていいですw).

それは,僕が百合とかエスとか,そういう世界に目覚めた中学〜高校にかけての頃(この話はこの話で長くなるのでここではしませんが),今みたいに「百合」がサブカルの中でもジャンルとして確立していなかった頃のことなので(「百合」が本当に隠語だった頃です),そういうジャンルの本なんてほとんど手に入らないし,手に入ったところでおおっぴらに読むことも出来ませんでした(たしか,吉屋信子ですら再発されてなかったんじゃないかな?いまは百合が一般化して,女の子同士の友情ものみたいなライトなものから,性交を伴うガチなものまで,よりどりみどりで選べるなんて,夢のような世界ですね!).当時は,本当にそういうジャンルのものを集める術がなくて(15 年くらい前なのでネットも今みたいな状況じゃなくて,本当に情報すらほとんど手に入らなかったのです),限られたお小遣いで普通の小説に少女小説を挟んで購入しては(恥ずかしいから),その数少ない何冊かをぼろぼろになるまで読む,なんてことを繰り返していました.

そんな当時の僕の「百合欲」が,中高生特有の膨大な妄想力で暴走した結果,「自分が女の子になれば自在に百合れるのかなぁ……」と考えて,自分が「可愛い女の子」になって,「ある女学校に入学した私を,憧れの先輩が『お目』にしてくれる日々」なんかを妄想しては,性欲とは違う微妙な感情の渦に飲み込まれて,結果,自慰をして,罪悪感とも絶望感ともいえない感情と射精後の,いわゆる賢者モードな虚脱感のなかで呆然とする,なんていう日々を過ごしていたのでした.

今思い出してみても,心の底から気持ち悪いのですが,趣味として百合ものの小説を書いている今,「自慰→呆然」の過程を除いたら,ほとんど同じような感覚でものを書いているなぁ,と気が付いて愕然としたりしてしまいます.

……とか,書いていたら,もうひとつ,決定的に気持ちが悪い,「女の子になりたかった」話を思い出したのですが,こっちは,長くなるので,今度,別記事で書こうと思います.

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その次に,「女の子」になりたいと思ったのは,高校三年の秋〜冬にかけての時期でした.こっちは,ちょっと先に書いた話とは毛色が違っていて,僕の百合好きとは無関係な話です.

当時,僕には,付き合っている女の子がいて,この子が,いわば「放浪息子」の高槻くんみたいな「女になりたくない(と思い込みたい)」女の子だった(と僕が当時思っていた),という話です.未だに,この頃の人間関係とかが完全に消滅しているわけでもない話だし(SNS の弊害),あんまりリアルな話は,登場するかもしれない人を傷つけるかもしれないので,自分の中で消化してからうすーいフィクション(出来れば,僕が究極に気持ち悪い人間になるようなギャグ)にできたら公開しようかな,と思います.

2014年3月27日木曜日

志村貴子熱

そんなわけで,相変わらず,志村貴子熱が冷めない.その後,「放浪息子」も全巻揃えちゃったぜ!

「放浪息子」は,今回の志村貴子熱より前に 6 巻くらいまで読んで(確か喫茶店で),その頃にアニメ化して,アニメがあまりにもよく出来ていたから,その余韻を殺したくなくてそこで止まっていたんだけど,今回の志村貴子熱で改めて全巻通読して,いい意味で脱力した.ラストというか,最終巻はものすごい勢いで風呂敷を畳みにきていて,ややもったいない感があるんだけど(もっとこの話を読みたいって意味で),ラストのあんなちゃんの可愛さが全て持ってっちゃうよねー.というか,あんなちゃんが可愛すぎてヤバい.あと,ささちゃんは天使.

さて,次は「敷居の住人」を読み直すか(違います.仕事です.あなたには時間外にやらなければならない膨大な仕事が残っています).

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志村作品で,僕が個人的に痺れてしまうのは,クソみたいなキャラが徹底的にクソみたいな人間として描かれているところです.例えば,「青い花」の杉本先輩とか大戦犯千津ちゃんとか,「放浪息子」の高槻くんとか,心の底から腐りきっている人間を,ちゃんと腐りきって描けるというのは,娯楽性が重視されるマンガと言う媒体ではなかなか難しいと思います(流石に,千津ちゃんはクソ野郎過ぎて描写少ないけどw).

また,登場人物の正確の一貫性が保たれないリアルさが魅力的だと思います.まぁ,これは,作者のキャラ付けのブレが効いているような気がするのですが,時間の経過とともに感情とか,考えとか,そういうものがブレていく様が非常に人間くさくてたまりません.「青い花」なんて,それでいて,最後に初恋が勝っちゃうんだものなぁ.そこら辺の,ファンタジーとリアルさの狭間のフィクションでしか表現し得ない空間が,とても好きなのです.

2014年3月25日火曜日

書店考

今日,たまたま,欲しい本があったことと,仙台帰りで日中に駅前に居たこととで,市内の大型書店を巡って,その本(ちょっと前に出た本ではあるものの,メジャーなもの)を探して歩いたのに,見つからなかったという徒労の中で,ちょっと考えたこと.

ちなみに,数日の旅行帰りだったので,荷物も多く(ちょっと研究関連の打ち合わせもあったから諸々の資料も持っており,普通の旅行よりは過剰に荷物もありつつ),過度に疲れたという側面も否定できないものの,基本的には「街の書店の存続」を願う側の自分ですら,やや現行の書店システムに不満を感じてしまうような暗黒面に落ちかけたのでした…….

基本的に,本を買おうと思う際に,何を重視しているのか,ということが,書店という存在を決定づけているものだと思います.僕の場合,大きくわけて,(1)中の情報が欲しい,(2)冊子体で手に入れたい欲求がある,(3)ビブリオグラファー的な視点からその一冊が欲しい,という 3 つの段階があります.もちろん,ほとんどの場合は(1)で,(2)はそんなに多いことではなく,まして(3)は,ほとんど起こらない欲求ですが,稀にそういう欲を刺激される程度には「物」に対して欲を持っていると言えます.これを,買う本の種類で分けるのであれば,僕の場合,(1)は教科書や学術書,新書,ハウツー本,雑誌,ちょっとした合間に読みたい小説など,(2)はマンガ,じっくり読みたい小説など,(3)は絶版本(主に教科書),特定のものが乗っている雑誌,古い限定本などのいわゆる稀覯本などにわけることが出来ます.

僕の場合,ある程度の電子書籍は当然,生活に組み込まれていて,論文,教科書(ぶった切ることに抵抗がない自炊済みのもの),青空文庫,冊子体が邪魔になる類の本(情報系の雑誌,新書が多い.大体の場合,(1)の本に当たりますが,「青空文庫」に関しては,単純に金銭的な問題です / 笑)などは,電子書籍として利用しているものの,Phycho-Pass の槙島さん的な意味で,「紙の本が好き(要は(2)的な感情)」なので,結構な数の本は冊子体を購入しているのが現状です(単純な好みの問題で,電子書籍がどう変わればいいとか,そういう問題でもないのです.ページを捲る感覚,リズム,積むことによる存在感,重量感などの物質的な存在.[愛読書になればなるほど馴染む] ザックリとした検索性能.書き込みの利便性.読み込まれることで古く壊れていく過程などなど,本と自分との間にある物理的なやりとりが好きなのです).

そこで,冊子をどう買うか,というのが僕の中での問題になります.

僕は,普通の人に比べると,Amazon のようなネット通販をはじめたのが遅く(これは,単純にクレジットカードを持ったのが遅かったということで,ネット通販にアレルギーがあったとかではないです),5, 6 年くらい前までは,基本的にどんな本に関しても新古書店に足を運んで購入していました.まぁ,本を能動的に買うようになってから今まで,基本的に都市部に居住していたので,よほどのことがない限り手に入らない本というのは,なかったように思います(とはいえ,古い教科書なんかは古書店を巡っても手に入らなかったりしたことはありましたが,そういうときは諦めるということも,当時は,知っていました).

しかし,Amazon をはじめとしたネット通販を利用し始めると,その辺の状況が一変しました.まず,よほどの稀覯本以外は「諦める」ということが出来なくなりました.それと同時に,ちょっと探すのに苦労しそうな本だったり,実物の状態・内容を問わずに手に入れたい本(絶版古書とか,取り敢えず外れなさそうな教科書とか,特定の作家の本とか)だったりした場合,ほとんど書店に行くことはしなくなりました.まぁ,それで,さしたる問題が生じたことはないのですが,どうしても,中身を確認してから購入したい本であったり(複数の同系統の本のうちの一冊を選びたい,とか),本そのものに愛着を持ちたかったりすると,書店で実物を確認したくなり,書店に赴くことも多いです.なにより,書店という空間で,じっくり時間をかけて本を選ぶ,という作業にも愛着があるんでしょう(紙の質感とか,印刷とか,装丁とか,下らないことも含めて,この作業を経ているかどうかで,結構,良書を選り分けることが出来るものなのです.何も考えずに Amazon でポチって失敗することはあっても,この過程を踏んで,外すことは,ほぼないので,資金力に限りのある貧乏人にとってはバカに出来たことではありません).もちろん,本屋で運命的に(と自己満足に浸りつつ)良書と巡り会うという快感もあります.こういうことは,(良くも悪くも)雑多にたくさんの本が並んでいる,書店という空間ならではの快感だと思います.

もっと気持ちの悪いことを言うと,僕の求めている本が(1)ではなく,(2)に属する場合など,いわゆる(そして,最近,某作家のツイートで話題になった)研磨本の件など,どうしても実物の状態が「いい」ものが欲しくなることだってあります(通販で,傷のついた本を掴まされた経験など,僕でなくてもあるでしょうし,それは,気持ちのいいものではないという感覚は,研磨本に対する忌避感に比べれば,一般的だと思います).

そんなわけで,僕は,書店が好きです.当然,(僕にとって)冊子である必要がない「情報」であれば,どんどこ電子化していって欲しいと思います.また,Amazon をはじめとしたネット通販,日本の古書店などの古書店ネットワークなどの利便性は,とても大きいものだと思いますし,それは,今後,もっと発展していって欲しい分野です.しかし,やっぱり,書店には,今後も存続して欲しいとは思います.

しかし,まぁ,今日の徒労でも感じたことですが,書店というシステムは,完全に時代に取り残されているのだなぁ,と感じることもままあります.空間的な制約による在庫の有限性,書店員の数とワークバランスの結果生じる選書や管理の不徹底,知識不足などのどうしようもない部分に関しては,まぁ,そういう不便さに対する愛着も湧くものですが,未だに,クソみたいなインターフェイスの無能検索機を堂々と置いていたりする無神経さなんかには,腹が立つことが多いです.

完全なる斜陽業種で,いずれ消え往くことが決まりきっている存在でもあるのでしょうけれど,願わくば,僕がそれを楽しみたい限りは,存続してくれることを.

2014年3月16日日曜日

青い花

だいぶ前に,完結していたことは知っていたけれど,なんだかんだで(去年〜今年が)忙し過ぎてフォローできていなかった分に追いつきました.

アニメ化が決定した頃に存在を認識して(アニメを見ずに),当時,発行済だった 3 巻までを購入したっきり放置していたのですが(積んでいたわけではなく,単に「この程度か……」と思ってそれきり放置していた←今更後悔している),最終巻まで一気に買い込んで通読しました.当時,アニメをちゃんと見なかった理由は,あんまり覚えていませんが,私が日常的に(顕微鏡を覗いているときの暇つぶしに)アニメを見るようになる前後のことなので,単純に存在をスルーしていただけかと思います.

とにかく素晴らしいのひとことしか出ない作品でした.最後のほうなんて,常に「俺ちゃんはすぐ泣くんだから」状態でした.

あーちゃんマジ天使.

この作品で,唯一,不満な点があるとしたら,あーちゃんがマジ天使過ぎて,男だろうが女だろうが,そもそもあーちゃんに恋をしない人類なんて存在しないんだから,百合とかじゃないよね,とか思ってしまうところくらいです.

純文学の名作を上手く使っているところも好感度高いです.特に,「鹿鳴館」の使い方が神がかっていて,とてもいい(三島は小説はゴミカスのようなつまらないものばっかりだけど,戯曲に関しては天才だよな,と,これを切っ掛けに再読して思ったりなんだり).「第七官界彷徨」も(というか尾崎翠も)久し振りに読みたくなった.

アニメがあんまりうまくいかなかった理由のひとつに,「鹿鳴館」の手前で止まってしまったからというのもあるんじゃないかな,と思います.というか,「鹿鳴館」までは,ほとんど前フリみたいなものな訳で……

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結果,俺の中で志村貴子ブームが再燃して,取り敢えず「放浪息子」を買いはじめている今日この頃.安那ちゃんにキュンキュンして,ささちゃんがまたマジ天使で,頭がかゆくなる日々です.

あ,そういえば,俺,「青い花(元ネタ)」って読んだことないんだよな.いまなら,激甘なドイツのロマン主義文学でもイケちゃう気がするぜ!

2014年3月15日土曜日

x 細胞は深い夢をみる

※僕の立場を簡単に言うと,サイエンスという巨大な山の麓で右往左往に蠢く有象無象の一人でしかないものです.この記事で触れようかと思うトピックに関して,一部についてはある程度の識者としての専門性を有する部分も含んでいるものの,多くの部分,とりわけ,問題の根幹にあたる生物学に関する専門性は持っていないので,その部分の判断は保留するし,深入りできません.この記事は,単純に,自分のための備忘であり,一連の疑義の過程で,自分がどこら辺にまで思考して,どのくらい問題を捉えられているかの記録でもあるので,非常にパーソナルな内容になると思います.本当は,もっとしっかりとした結果(例えば,理研の最終報告や正式な論文の取り下げなど)が出てから書くべき内容だと思ってはいるのですが,あまりにも問題が長引き過ぎたので,このあたりで,自分なりにまとめておきたいと思ったので,取り敢えず,いま,書いておこうかと思っているのです.

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なんだかなぁ,と思います.最早,脱力気味に事態を眺めている今日この頃です.

本当は,物事が完全に終結してから何かをコメントしようかと思っていたのですが,どうも,この件は,僕程度の人間じゃ,単なるワイドショー的なコメントをするのにも,思考実験をするのにも,話を展開させて身近な落としどころをつけたコメントを述べるのにも,どうにも手に負えない段階まで至っていると思います.あまりにも問題が複雑で,あまりにも騒ぎが大きくて,その過程で起こった出来事があまりにも「最新過ぎて」,もはや,この件に関して,冷静に,正確に,全てを総括できる人間なんていないのではないかと思います.その証拠に,僕なんかよりも優秀なサイエンティストの多くの間でも,コメントをする際に「問題の切り分け」にすごく気を使った発言が目立つようになってきているくらいです.

この件とは,最近,巷間を賑わせている STAP 細胞の論文とその著者を巡る,あれやこれやのことです.

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当初,この論文のニュースが流れた際,僕がはじめに抱いた感想は,単純に「(単純に成果も,同い年で Nature に載せたという事実に)すごいなぁ」という感嘆と,世の中の多くの人が感じていたであろう「本当かよ?」という薄らぼんやりとした不安でした.生物学,ましてや最新の細胞学に関する知見なんて,そこら辺の一般人に毛が生えた程度にも持ち合わせていない僕にとっても,「酸に浸すだけで万能細胞が生まれる」という「簡単さ」(その段階では速報ニュース記事以上のサーチをしていなかったので,この程度の印象でした)に,やや違和感を覚えていたわけです(ES 細胞や iPS 細胞がどういうものか,という程度の知識はあったので,この「簡単さ」に違和感を覚えたのは,まぁ,普通の感覚だと思います.逆になんの批判的な感覚も持てない人は,たぶん,科学に向いていないと思います).

この件に関して,(自分の専門外の)他の科学ニュースよりも,やや余分に興味をもったきっかけは,筆頭著者である氏が,同い年で,同じ千葉県出身で,僕の母校と色んな意味で近しい千葉の進学校出身だったからという部分が,僕の中では大きかったと思います.それとともに「温泉(弱酸性泉)に浸かったときに『STAP 細胞になった』とかいうネタが増えたな」などとバカなことを考えていたものです.

その後,氏が(大きな研究を成し遂げた研究者としては異例に)若い女性であったこと,彼女自身が女性性を隠すことなく,いわば「女子力」を強調してアピールしたことから,報道がサイエンスとはかけ離れた部分に加速していく過程を眺めながら,いわゆる「リケジョ報道問題」や,そういう報道に対して,彼女自身が自分の「女子力」を前面に押し出してアピールをしていたという事実,に対する理研の「報道自粛勧告」とともに,僕は,「理系」という人間の括り方や,女性研究者の立ち位置などに関して,考えていました.一回目に,この件について記事を書こうと思ったのが,このときです.

当時の僕の率直な感想は「自分から,『女』をアピールしていたのに,報道がその部分を中心に過熱してることに文句を言うのってなんかアンバランス」というものでした.実際,女性研究者がプレスリリースするような研究を為したときに,ここまで「女子」を前面に押し出したアピールをした例を他に知らなかったので,マスコミの安易な報道を助長するようなアピール手法にやや疑念を抱いてもいました(もちろん,そういう部分しかフィーチャーできない低レベルなマスコミ,科学報道という部分の問題もあるとは思うのですが,この件に関しては,それを分かった上での確信的な広告だったんじゃないかと,いまでも思います.それが悪いとは言いませんが,下品だとは思います).

多分,僕が,まだ大学にいて,こういう記事を書く時間があったとしたら,この時点で記事を書いて,後ほど晒す必要のない恥を晒していたかも知れませんが,幸いにも(?)目の前の仕事が忙しくて,そういう「遊び」をする時間がとれない間に,例の「画像改竄疑惑」,「画像の取り違え」などが噴出するとともに,「簡単な」はずの STAP 細胞の再現性がとれないなどの報告がポツポツと入ってきました.

この辺りで,この論文にまつわる様々な事象が「重大な問題」に変わっていったと思います.僕は,この時点で,問題のあまりの複雑さに,専門外な自分が安易に意見を挟むべきではないと判断して,結論が出る頃まで,この件になにかのコメントをするべきではないと判断し,書きかけていた「リケジョ」云々の記事をお蔵にするとともに,STAP 細胞関連のニュースを,きちんと追いかけるようになりました.

「画像」に関する疑義が生じはじめた頃にオープンアクセスになった論文を門外漢ながらなんとなく読んでみた自分の印象は「(理研の言うように)STAP 細胞の実在性に関する部分とは直接は関係ないものの,あまりにも杜撰すぎて,ちょっとサイエンスに携わる人間としてどうなんだろう」というものと,「STAP 細胞(という概念)が,嘘や捏造にしては,あまりにも『オリジナル』な考え方に基づいているので(捏造や嘘は概して,『それらしい』もので意外性は伴わないことが多いという経験則),そのもの自体は本当にあるのだろうから,もっと丁寧に適切に論文を作れなかったのか?」という素朴な疑問でした.この時点では,露ほども「捏造」とか「悪意」というものの存在は考えていませんでした(とはいえ,この「杜撰さ」はサイエンティストとして信頼できない,共同研究者にはしたくない,という感覚は芽生えはじめていました).

その後,共著者の一人が「小さい万能細胞」という考え方をかつて創意していたこと(そして,それは明確な証拠を示せずに学会で黙殺されていたこと),「STAP 細胞」はそれに沿って考えられた概念ではないかという疑惑がネットの片隅で語られているのを目にして以降,僕の中では「これは,ちょっと洒落にならないかも知れない」という評価に傾きはじめました.例のスラドブログ(ケビン・コスナーとかのアレ)を目にしたのもこの頃で,門外漢の自分には立ち入ることも出来ないレベルの大問題に発展したことを認識しました.これ以降は,完全に傍観者として,眺める人になるとともに,この件に関しては,「査読」とか,「論文を書くということ,研究ということ」とか,「理科研究のシステム」とか,「若い女性研究者という存在」とか,そういう部分をアウトリーチするようなコメントしか出来ないな,と感じはじめました.

さらに,この流れや疑義が決定的になったのは,著者の過去の論文における「問題」や,ちょっとありえないレベルの「コピペ」が発覚したあたりでしょうか.この辺りで,「STAP 細胞の実在性」とか「論文そのものの問題」とか「ミスと故意の境界」とかいった問題の埒外で,著者のサイエンティストとしての自覚の問題や,信用と相互監視によって成り立っているサイエンスという山の内在的に抱えている問題が「世間の耳目に触れた」ことに関連して生じた誤解や偏見や無責任な放言などまで話題が広がってしまい,もう収拾がつかなくなってしまった,という感想を抱きました.暴走しはじめた機関車を誰も止められなくなってしまった,と.

一方で,こういった一連の出来事に関して,理研がなんの具体的な見解も提示しなかったことには,疑問と不気味さを覚えました.確かに,問題が暴走機関車と化して,誰にもどうにも出来ない状態になっている時点で,内部調査委員がどうしようもなくなっているであろうことは想像がつくものの,邪推とはいえ「何かを守ろう」としているかのような,「この展開で誰を血祭りに上げることで収束させようとしているのではないか」というような不気味さを感じたのは事実です(これは本当にただの邪推ですが……).

そして,プロトコルの提示により「STAP 細胞」の実在性が根本から揺らぎ(この件に関しては専門外なので,識者からの受け売りです),無関係の論文からの画像の使い回しが発覚するに至り(と同時の,共著者の一人であり,この問題に関してただ一人,この疑惑に関してコメントを発し,一人で戦っていた方からの「確信がなくなった」という発言が為されるに至り),問題は著者の個人的な「杜撰さ」を越えた,共同研究という研究手法の抱える闇にまで展開してしまいました.

学位論文のコピペに関しては,著者の人格の「杜撰さ」で済む問題なのか,「悪意を持った捏造」が起こったのか,というラインまでも揺らがしているといえるでしょう.これは,学位論文を書いたことがある人間として,ちょっと信じられないレベルの,「杜撰さ」を越えたところにある問題です(この点だけは断言できます).

昨日の理研の会見の詳報を読みましたが,問題の広がりが大きくなり過ぎて,理研という頭脳集団でも,どうしようもなくなっている様がよく見て取れました.そして,これは,理研という組織だけではなく,サイエンスコミュニティー全体が批判的に対応していかなければならない,社会に結論を提示しなければならない,大きな問題になった,と感じました.

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現時点での,諸問題に関する僕の見解は,次の通りです.

論文そのもの:致命的な画像の使い回しが発覚し,共著者が論文そのものに対して疑義を抱いている時点で,真相とは無関係に即刻取り下げるのが普通でしょう.たとえ,「STAP 細胞」が実在し,このことで認知された結果,他の機関が手法の開発に成功し,全ての利権を攫われたとしても,ここで取り下げることがサイエンスコミュニティーの健全性を担保する唯一の方法であると考えるからです.

STAP 細胞の実在性:専門外の人間なのでわかりません.ただ,現時点でオープンに提示されている証拠だけから専門家が判断した通りなのだとは思います.

研究者個人に関して:最早,「杜撰さ」の生んだ「ミス」という言い訳が成立する段階ではないと思います.(本来の意味の)確信犯なのでしょう(「犯」という文字を使うのはちょっと違うかも知れませんが).個々の研究の正当性とか,その真相とかとは無関係に,ここまで「杜撰な」人と,僕は関わりを持ちたいとは思えません.
ただ,個人を引っ張り出してコメントさせろ,なんていう発言はどうかと思います.完全に捏造が判明したりとか,最終結論が出た段階で,なんらかのコメントが聞きたいという段階であれば,まぁ,分からない感想ではないとも思いますが,基本的には,「本人に何を言わせたいんだ?」と思います.この問題の本質は,本人の「悪意の有無」なんて些末な問題ではないと思うからです.適切にこの問題を評価して,それに則って,適切に関係者を処分して,その過程をオープンにして,みんなが納得すれば,それでいいのではないかと思います.そもそも,研究成果(とそれが引き起こした諸々)に関して注視されているのであって,この人自体に注視している人なんてサイエンティストにはいないでしょ?(僕と同様に,こういう人とは研究なんて出来ない,という思いを抱く人は居ると思うし,最終的にどんな結論になっても,この人の未来は,明るくはないと思うけれど).

共同研究者,共同研究ということ:共同研究というのは,少しずつ専門性の異なる人間が互いの持ち寄った成果を統合するものです.この辺りが,関わったことがない人には通じにくいのかも知れませんが,必ずしも全員が全ての成果に関して十分に精査したり,十分に理解しているとは限らず,その代わりに,いわば「信用取り引き」をしているという状態です(そもそも,共同研究者の「成果」を精査できる程十分な知見が共同研究者にないことも普通です).例えば,僕が微化石の分析を任された研究に関して,僕が都合良く「捏造」したとしても,僕の共同研究者は僕の出した結果を精査する術を持たないでしょう(そもそも,普通の研究者は,そんな発想すらしない [と相互に信じた上で共同研究を行う] ので,例として適切とも思えませんが).しかし,こういう事例を目の当たりにしてしまうと,かつて先輩にいわれた「自分の研究成果の一番の批判者は自分」という言葉を,「信用」を覆してでも,共同研究者の成果に向けるという努力をもっと向けるべきでも,当然,あるのでしょう.特に,論文という形にまとめる段階で,共著になった時点で,論文の全ての文字,画像に関して,責任を負える程度の精査をしていかねばならないのかも知れません(それは,色んな意味で困難だとは思いますが…….それが出来るなら,そもそも「共同研究」じゃなくて単著が出来る,ということでもあるので).

画像のこと:意図的に行われた画像の改竄,使い回しなんていうのは,基本的に論外です.ただし,無数の情報をひとつの論文にまとめる過程で,混乱して,思わぬミスをすることは,人間である以上,どうしようもないことです(僕だって,ミスってエラータムを出したことがあります).これらを全て「杜撰さ」が招いたミスと判断するか,無自覚であっても裏に多少なりとも「悪意」の潜んだ確信犯と判断するかは,非常に難しいと思います.というか,そんなのは本人が(これまでの報道や世間の流れに左右されない状態で)はっきり言明するまで,だれにも分かりようがありません(し,ことがここまで至った以上,本人のコメントが「本心」である保証はもうないでしょう).しかし,全てがミスだったとしても,ここまで「杜撰な」人というのは,少なくとも,誰も信用してくれないんじゃないかな,とは思います(あくまで,信用というのは感情ですから).

コピペの問題:この件に関しては,「コピーアンドペースト」を,普通の報道番組が「コピペ」という単語で表現しているということが,個人的には可笑しかったりもしたのですが,やや深刻な部分も含んでいると思います.
よく似た手法で研究された論文の materials and methods が,ほとんどコピペになることは,ままあることだと思います.また,非英語圏に育った我々が,英語で論文を書く際に,上手い表現を他人の論文から引っ張ってきて真似をする(コピペとか盗用という過度なレベルではなく)ということも,まぁ,よくあることです(それがいいか悪いかは置いておいて).そもそも,似たようなことを書こうとしている文章が似るのは当然のことです.だから,コピペとか盗用とかいう問題は,たとえ科学倫理に通じた優秀な科学者であっても判断が難しいものなのです.
実際,文章を書くときに「コピペと疑われないように書こう」なんて,普通は意識していませんし,やましいことがなければ,そもそもそんな疑義が降り掛かることなんて気にすらしません.
また,この問題においては,問題になっている論文の手法部分だけではなく,別な博士論文のことが引っ張り出されてきた結果,非常に大きくクローズアップされてきた,という側面もあり,なんとも問題を複雑にしています.
まぁ,引用なしの長文コピペは,良くないことなのでしないことですね,としか言えません.引用明記すりゃいいのか,とか,色々,問題はありますが.

再現性の確認:このことに関して,騒ぎはじめたのはどう考えても「早すぎた」と,今でも思っています.「STAP 細胞」が実在するかどうかということに関して,僕には,まったくもって分かりませんが,論文が出てから 1 ヶ月も経たないうちに,(多くは研究者でも何でもない一般人が)騒ぎ出すようなことではなかったと思います.結果として,「STAP 細胞」は,存在そのものが疑問視されるものになり(僕にはそうらしいという判断しか出来ませんが),恐らくは,出来もしない(可能性が高い)ものを作成しようとして多くの研究リソースが無駄になることを食い止められたのかも知れませんが,やはり,ネットを介して,たった 1 ヶ月で「再現性が取れない」という話が一人歩きしていった短絡的な展開は,やや恐ろしいものでした.

科学報道:これまで速報性以外の何かを期待したこともありませんし,今後も何も期待していません.そもそも,専門外の人間が,論文を読まずに正確な認識を得るようにするなんて不可能ですし,そんなことをする意味があるのか,と思います(専門外だったら,論文読んだって分からないのが,普通の世界なんだし).

リケジョという表現,そういう報道,それを装うアピール:バカみたい.昔から,キュリー夫人の科学的成果を無視して「女性で初めてノーベル賞をとったから偉人」みたいな扱いをする伝記に疑問を持っていた自分としては,そもそも,学術的な問題を性差で区別すること自体がナンセンスだと思うし,バカみたいと思います.このことに絡んで触れておくべきことに,公募における女性研究者の採用に関する文言(「同程度の学識・研究である場合,女性を優先して採用します」という文章を見かけることは多い)とか,軋轢を生んでいる事例が存在している,という事実を挙げておくべきだと思います.
自分からの女性アピールなんかに関しては,個人の勝手だと思いますし,それによって自分を宣伝するという方法は,あってしかるべきだとは思います.ただ,僕は下品だな,と感じるということです.それに群がるマスコミ,そういう報道を眺めて騒ぐ一般の人の様は,醜悪とすら思います.

IT 社会における科学:この問題で,考えさせることがいちばん多かったのが,この部分.明確な見解は示せないくらい,大きな問題で,功も罪も孕んでいると思います.ちょっと大きすぎて,本当に分からない.少なくとも,それ以前とは変わっていくのだろうという予想だけはつきます(既にだいぶ変わっているわけだし).

一般社会と科学:単純な疑問として「なんで科学をやっていないのに科学に興味を持てるのか?」という感覚が,昔からあります.「科学をやる」方法は,色々あると思います.研究をするといういちばん単純な方法から,論文を読んで知識をつけるという高度な方法から,普及書,普及講演に参加するなどのライトな方法までいろいろ.まぁ,この部分に関しては,アウトリーチとか,この問題から,だいぶかけ離れているところで,色々,思うところがあるので,別な機会に,こんなチンケなブログとかではなく,もっと公的な方法で書くこともあるかもしれないので,深くは触れません.

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雑多ながらメモとして.

(ところで,タイトルの元ネタとか暗喩は誰か分かってもらえるかな,とか気にしてみたり)

2014年3月11日火曜日

3 年

敢えて何も言わないのも,また,なんだか無駄に意識しているようで格好つかないんじゃないかと思ったり,そういう,変な意識の仕方をする時点で,ダサいんじゃないかと思ったり,そもそも,ダサかろうが格好がつこうが,そのこと自体にはなんにも意味がないということに気付いたり.

どうやっても,震災を意識せずにはいられないのは,結局,あの日,あのとき,あの場所に居たという事実が,自分の中で大きい出来事だからだと思う.

あの震災から 3 年間経って,その間に,自分にも色々な出来事があった.学位を取ったり,就職したりという大きな出来事から,小さな出来事まで色々.そういう出来事の全てが,結局,あの震災を末端で経験したことに多かれ少なかれ影響を受けていて,その結果に,今の自分が居るんだと思うと,不思議な気分になる.多分,あの経験がなければ,僕は,ここに居ない.

地球科学者の端くれとして,あの日を経験し,その後,立場上,震災に関係する仕事も多くなった.たぶん,そういう中で,単純な学究ではなくて,自分の知識・技術を社会に還元したいという欲求が生まれ,今の自分に至るんだろうと思う.

よりによって,あの震災から 3 年目の今日,ちょうど津波堆積物の研究に関連した作業をしながら,そんなことを考えた.

2014年2月23日日曜日

雑感

「ルールが悪い」は,そのルールに則ったモノに関わる(やる,見る etc.)限りは,絶対,言っちゃいけない言葉だと思うんだけど,世の中的には,そういう認識に乏しいんだな.

その辺,野球,囲碁,将棋あたりのスポーツ(マインドスポーツ含む)文化って,その辺がちゃんとしていない日本の中でも割と成熟してるんだなー,と思う.特に,電王戦の塚田九段を評価できてる将棋ファンは偉いと思う(多分に人間に対する贔屓目はあれどw).

2014年1月30日木曜日

忍ぶ川みたいな

アニメが見たいと思う今日この頃です(映画じゃないよ!小説のほうだよ!映画なんてなかったんや!).

サブカル文化の王道に横たわるつまらなさは,真面目な心情の機微を茶化してしまう悪癖というか羞恥の部分にあると常々思っています.羞恥も羞恥で突き詰めれば,太宰に至るのですが,そこを突き詰めずに「ギャグ」という合気でいなしてしまっているのが,とても白けてしまいます.その点,エロアニメとかエロマンガって,純粋に性欲を突き詰めているだけあって,そういう部分では,サブカルの最先端を走っていると思うこともあるくらいです(精神的童貞のファンタジーも強いけれどw).

子供向けの作品だから人が死なないとか,(精神的)童貞が相手の商売だからセックスの臭いを漂わせないとか,まぁ,作る側が考えることはあるのだろうけれど,自然主義以前の明治人じゃないんだから,何を言っているんだろうと思ってしまうのです(あ,でも,明治人は人の死にはもっと寛容かな).

そういうわけで,ときどき,サブカルの中に現れる羞恥を無視した描写に痺れてしまいます.例えば,「とらドラ!」の亜美ちゃんがみのりんに放つ「あんたと話してると生理中な気分!」とか,最終話の大河と竜司の離れる前夜とか,「TARI TARI」の「〜したり,〜したり」な青春観とか,大智が最終話の告白に至る過程(唐突さがなく,視聴者と一緒に紗羽に魅かれていく,という描き方がよかった)とか,「京騒戯画」のドストレートな家族だから一緒にいたいんだ!という主張とか……,他にも色々ありますが,まぁ,コレを延々続けても仕方がないので,この辺でやめます.

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んで,結局,何がいいたいのかというと,「桜 trick」は,友達の中でも特別という証のキスをするときに "唇が触れ合う" という,そのことの純粋な快楽をちゃんと描写していることだけは素晴らしいと思う,ということです.感情が行動を起こさせて,身体感覚が感情を奔らせるという,その部分を(それが意図的でなくても)ちゃんと描けているというのは,素晴らしいと思います.

あと,あの作品は,百合モノにありがちな片方が,設定の上で性別女性なだけで,ほとんど男の精神してんじゃん,というどっちらけ感がないことも良いと思うのです.それ以外は,まぁ,普通の作品ですが(原作一部既読者並みの感想).

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……という話を,彼女に熱く語ったら,生暖かい眼で「そうだね.よかったね」な反応をされたので,ここに書いたった.

かぐや姫の物語

正月に見たので,もはや,記憶がだいぶ薄れているのだけれど,自分用の備忘として感想を書いておきます.

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とにかく,素晴らしかった.何よりも,地井武男さんの演技がすご過ぎて失禁しかけました.他の人の演技も良かったのだけれど,地井さんの怪演が素晴らし過ぎて,正直,それ以外の全てがどうでもいいというくらいでした.本当に,惜しい役者さんを亡くしたものです…….

昔から,声優を使うのを嫌う監督だけれど,他の方の演技も良かったので(プレスコのおかげかもしれないけれど),もう一人のジブリの監督の特に意味もなくタレントを使うという不安定さはなく,安心してみられました(いや,駿の演技指導も凄いっちゃ凄いんですが……).伊集院も良かったと思うw

ストーリーに関しては,本当にただの「竹取物語」だったので,やや捨丸にーちゃんのエピソードがウザかった気もしましたが,特記すべきことはありません.そういう話だって言うことは,日本人ならほとんどの人間が知っていることですし.

絵は,流石に美しかったです.「となりの山田くん」と違って,キャラクターデザインに拘泥させられる必要がないため,高畑監督のイマジネーションがドストレートに迫ってきて圧巻でした.高畑演出も相変わらず細かくて,痺れました.

音楽に関しては,僕が久石音楽全体があまり好きじゃないので,まぁ,そんなもんだよね(偉そう),という感じでしたが,月の人が降りてくるときの音楽は素晴らしかったと思います.

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まぁ,そんな感じです.

……自分が凄い気に入ったものの感想を書くのって苦手なんです(逆にいうとつらつらと文字を書きなぐっている作品評は気に入っていないものということ).

2014年1月29日水曜日

バランスを失した世界

かくありたいと願う理想像は誰もが持っているとは思うけれど,私にとっては,バランス感覚に長けた人というのが理想像にある.昔は,もっと尖った,よくある性格診断の結果に描かれる六角形のアートが一点突破して,直線になっているような人間になることに中二病的に憧れたものだけど,歳をとって,変節して,変容して,気がついたら,こうなっていた.

なんとも曖昧模糊な表現で,だからこそ,理想であって現実ではないのだろうけれど,やや "バランスという幻想" を失した感のある世界の中で,自分だけでもバランス感覚を持っていたいという願望は,私の中では自然な感情としてある.

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空気を読む,とか,そういう表現があって,私は,常日頃から,空気は可視光では透明なので読めませんなんて,嘯いているのだけれど,30 年に及ぶ,外界との密接な繋がりに縛られて,コミュニケーションが染み付いた自分が「空気を読めない」なんてことがないので,「空気を読まない」行為の道化に自分自身が可笑しく感じてしまうことも多い.

多分,10 年くらい前まで,バランスという幻想は,幻想としてそこにあったのだろうと思う.ようは,見えないという事実は,存在しない証明にはならないという屁理屈なのだけれど,コモンセンスという言葉で,十人十色を十把一絡げにしてきた世界では,そんな詭弁は不可視で,まかり通っていた.

あんまり具体的な事例は出したくないけれど,例えば,二次元に描かれた児童ポルノの規制云々という話題における,規制をしようとしている人の言う「ドラえもんのしずちゃんの入浴シーンが規制対象にならないくらい常識的に考えて分かるでしょ?」という言葉.そんなものは確かに常識で分かるという思考の放棄と,「しずちゃんの風呂」問題を提起する極北側の人間には,何の橋もかからない.つまりは,建設的な議論は生じ得ない.そして,法が存在しない上に,線引きとなる判例の存在しない世界には,どちら主張もなんの正当性も担保はされていないわけだ.

こういう事例は,ネットワークを介して,個人が簡単に繋がることができ,どんな考え方であっても簡単に発信することができる世界になって,初めて,大々的に発生するようになった最たる事例だと思う.

ルサンチマンの具現化とか,そういう使い古された論評を持ち出すのもバカバカしいくらいにユビキタスは進んで,人は好むと好まざるとに関わらず自分の中に育てていたコモンセンスが崩壊する様を見せつけられることになる時代.そして,コモンセンス,いわば特定のコミュニティのなかの考え方のルールであり,幻想の中の中間値,が崩壊した人にとっては,議論の中心が失われていってしまうことになるのだろう.

こういったバランスの失われた世界は,おそらくいんたーねっつのなかった頃には,普通の人は見ることもできなかったはずで,例えば,右翼の街宣車,新興宗教の勧誘,左翼団体のデモ行進など,普通の幻想に埋もれた人にとって,そういった極北に触れてしまうのは運の悪い事故であったと思う.事故として処理して,忘れていても,誰も困らなかった.そんな極端な事故の例を出すまでもなく,自分の属するコミュニティ以外の集団に出会うことも,そういう集団が存在することも,日常生活の上では知覚し得なかったと言うことでもあるのだろう(世界がもし 1000 人の村だったら,自分がリアルの生活で積極的に関われる世界はせいぜい 10 人くらいだ,といってもいい.僕の口癖みたいなもので前後 10 人の世界っていうもっと危ない話もあるんだけど,それはまた,別な話).

しかし,何の担保もない一個人がフラットに自分の思考を垂れ流せる世界では,どんな極端な思想でも,どんなにニッチな考え方でも,簡単に世界に見せつけることができてしまう.当然,このブログだってそういうもののひとつで,ここにある文章が共感を生むこともあれば,そんなものは生まずに排除されていくこともある.

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結局,なにが言いたいかというと,咲さんかわいい

自己分析

最近,考えていること.

ときどき,世間では流行っているけれど,特段,何のこだわりも理由もなく,自分がハマれないものを分析したら自分のことがよくわかるんじゃないかな,とかなんとか.

最近だと,艦コレとか.

乗り遅れたっていうのと,そもそもテトリス以外の電子ゲーム一切に興味が持てないというのが大きい理由かもしれないけれど,ゲームも何もやらないくせにアイマスにはアホみたいにハマった過去があるので,そこの差はよくわからない.

じゃあ,軍事ネタ(または,それに萌えを絡めること)に抵抗があるのかと言えば,そんなことはなく,ストライクウィッチーズもガールズ&パンツァーも大好きだったりするわけで…….艦コレに詳しい友人からは「デザインとか設定とか凝ってる」ということなので,(船はそんなに好きでもないけど)二次大戦くらいの兵器が,それなりに好きなうえに,流行ものにはわりと流されやすいミーハーファッションおたくな自分としては食指が動かないというのはちょっと謎.

たぶん,自分の好きな物とか嫌いなものって,いくら突き詰めても感情の世界に入ってしまって,結局,好きだから好き(嫌いだから嫌い)なわけで,そこを突き詰めても好き(嫌い)の範囲を定める以上には何も分からないので,最近は,そういうことを考えるのをやめてしまった.そのおかげで,何を見ていても,何も考えなくなってしまったので,そのせいで変なことを考えているのかもしれないけれど,自分の好悪の感情の外にある無関心は,それなりに興味深いとか思うのでした.

2014年1月13日月曜日

2013 年アニメリスト(記録)

視聴リスト,記録.

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2012 年秋アニメ継続.

  • バクマン。3
  • Robotics; Notes
  • Psycho-Pass
  • ガールズ&パンツァー

「バクマン。」以外は面白かった.

特に「ガルパン」は,徹頭徹尾面白かった.やっぱり,王道って良いよね.

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2013 年アニメ.完走

  • RDG レッドデータガール
  • アウトブレイク・カンパニー
  • 犬とハサミは使いよう
  • IS2
  • 有頂天家族
  • 俺の妹がこんなに可愛いわけがない。
  • 俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している
  • 京騒戯画
  • COPPELION
  • サーバント×サービス
  • 翠星のガルガンティア
  • 戦姫絶唱シンフォギア G
  • たまこまーけっと
  • ちはやふる 2
  • のんのんびより
  • ハイスクール D×D New
  • はたらく魔王さま!
  • ビビッドレッド・オペレーション
  • 僕は友達が少ない NEXT
  • 〈物語〉 シリーズ セカンドシーズン
  • やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。
  • よんでますよ、アザゼルさん。Z
  • ラブライブ!
  • ロウきゅーぶ!SS
  • 私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!

面白かったのは,なにより「有頂天家族」.森見登美彦の小説は読んでいたけれど,素晴らしくアニメ化してくれていて感動した.キャラデザが久米田っていうのも初め聞いたときは「どうなの?」とか思っていたけど,すごくハマっていてよかったと思う.

繊細な感情の機微を描くことでわけのわからない話を「日常」に丸め込んでしまった「たまこまーけっと」は怪作だった.まぁ,誰とも分かち合えないと思うけれどw 

「俺ガイル」は,ラノベ原作でものすごく敬遠していたけれど,主人公の周囲の優しい女性たちに甘えきった偽悪っぷりが清々しくて,すごく良かった.ややラノベ臭は漂うんだけど,それを忘れられるくらい,ちゃんと高校生を描いているところが良かった.

「ちはやふる 2」.熱いっ!面白いっ!

「翠星のガルガンティア」.王道ってすごく良いよね!中間ダレたって言われることも多いけれど,それも含めて,個人的には大好き.そもそも,どんな不満も最終話の「くたばれ,ブリキ野郎!」が全て吹っ飛ばしてくれたよね.

「京騒戯画」.とにかく声優陣の演技が素晴らし過ぎて,毎回,失禁しそうになりながら見ていた.話は,特に脚本,演出面で,やや丁寧さに欠けた感じはしたけれど,単純に「家族」というテーマがストレートに描かれていて,気恥ずかしくもあったけれど,良かったと思う.映像はキラキラしていてクルクル動いて,視聴することの単純な楽しみが大きかった.

「のんのんびより」.(この前のクールで「きんいろモザイク」が酷過ぎて)まったく期待していなかったんだけど,ものすごく良かった.特に,演出がいちいち良くて,ときどき挟まる「クレイジーサイコレズギャグ」とか,萌えを強調した描写がうざったく感じたくらい.

その他は,「ハイスクール D×D」,「シンフォギア」あたりが面白かった.「D×D」は,ポル産なんだけど,普通に面白いから困る.「シンフォギア」は,1 期よりもぶっ飛んでいて(ギャグ的な意味でも)面白かったのが困る.

あとはあんまり印象にない.「脳内選択肢」,「ラブライブ!」,「IS 2」,「レッドデータガール」は,なぜか全部視聴したんだけど心の底からつまらなかった.「ハサミ」は良い意味でもクソアニメだったから,幾分かマシw あ,でも,「ラブライブ!」の凛ちゃんとエリチカおうちに帰るちゃんは可愛い.

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2013 年アニメ.秋アニメ 2 クールもの継続中.

  • ゴールデンタイム

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2013 年アニメ.途中挫折もの.理由は様々.

  • 惡の華(制作方法が面白いから見始めたけど,原作の絵の方が良いと感じて挫折)
  • きんいろモザイク(流石にカレンの可愛さだけで継続視聴は無理だった)
  • キルラキル(ネタ・勢いに対して無駄に長い.「フリクリ」みたいに 6 話程度にまとめてくれ,という感じ)
  • ささみさん@がんばらない(最終話あたりを見逃してそれっきり.必死で見たいという意欲もその後湧いていない)
  • 進撃の巨人(数話見て原作を読んだ方が面白いんじゃないかと思って,原作を読んじゃった.アニメは原作で読者が夢想する作品世界を全然描けていないと思う.特に立体機動の戦闘)
  • ステラ女学院高等科 C3 部(5 話目くらいで 1 話飛ばしてそれっきり)
  • ダンガンロンパ(そもそも話にはまったく興味もなく,大山のぶ代の声を聞いて満足した.1 話しか見てない)
  • とある科学の超電磁砲 S(本物の偽悪でかっこ良かった頃の一方通行さん編が終わって興味を失って,何話か見逃してからそれっきり)
  • Free! (面白かったんだけど,やはり,途中を飛ばしてしまってそれっきり.ちょっとだけ,今からでもちゃんと最後まで見たい気持ちもある)
  • 機巧少女は傷付かない(1 話を見たけどまったく興味を魅かれなかった.そして 2 話を見逃して,それっきり)
  • ローゼンメイデン(これも前半で見逃したっきり)

……基本的に 1 回でも見逃したら見なくなってしまった感じ.そして,大体の場合,それ以降も見たいと思える程の求心力がなかった.単純につまらない,自分に合わないと思って視聴を中断したのは「惡の華」,「キルラキル」,「きんいろモザイク」,「進撃の巨人」あたり(「進撃の巨人」に関しては,原作に移行したってのがメインだけど).

2014年1月11日土曜日

やや感傷が抜けなくて

本当は,大好きな音楽家であるところの大滝詠一さんが亡くなったことに関して,前回の記事で触れるべきかなぁと思わないでもなかったのですが,本当に大好きだったから,あまりの唐突な訃報に感傷的になり過ぎていて,触れるに触れられないような妙な感じもあり,また,新年一発目の更新から自分のセンチメンタリズムを前面に押し出すような文章をアップすることにも抵抗があったので,触れなかったわけです.でも,二週間くらい経った今でも,不意に音楽プレイヤーから大滝さんの歌声が流れると,悲しくなってくるくらいには,やや感傷が抜けなくて…….

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僕が大滝さんの音楽に触れたのは,まぁ,世の中の人の大部分がそうであるように,はっぴいえんどからの流れでした.気怠そうな,眠そうな声で,ふつーの青年のふつーの日常的な感情を吐き出すような歌い方に魅かれました.「A LONG VACATION」あたりから CD を買いはじめ,一見キラキラしたキャッチーなだけのポップスのような顔をしていつまでも聞き続けたくなる「趣味趣味音楽」の深みに耽溺していったのでした.

好きな曲は無数にあります.挙げても切りがないくらい.

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細野さんのコメントを読んで,本当に大滝さんの頭の中にあったはずの「ポップスの宝庫」がどこに行ったのだろうかと,想いを馳せる.死んだ人の頭の中にあった形になることのなかった「もの」って,永遠の中に消えていく,その儚さと美しさが素敵ね.

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なんだか,何を書いているのか自分でもわけが分からなくて,書いているだけで悲しくなってくるので,終わり.

BGM にかけていた「A LONG VACATION」で,ちょうど「カナリア諸島にて」が終わったし……

2014年1月6日月曜日

新年,明けてしばらく経ちましたが

おめでとうございます.

本年も,適度に更新をしていくつもりではありますが,そして,徐々に更新頻度を上げていきたいと思いますが,まぁ,そこら辺はぼちぼちと.

基本的に,自分の日々の記録であり,ちょっとした思考のメモであり,嗜好の垂れ流しであるところは相も変わらず.のんべんだらりと記録をつけ続けておくことが,いずれの楽しみになると信じて書いております.

ともあれ,本年もよろしくお願いします.

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今年は,正月休みが 9 連休だったこともあり,関東へ避寒して過ごしておりましたが,関東に居たという意味のあるようなことはほぼ何もせず,どこに居ても変わらないような正月を過ごしておりました.まぁ,その分,ゆっくりと休養を取ることはできたのですが(微妙にアドバイザリーボードという名の仕事はしていたような気はしますが……).

この正月休みで印象に残ったのは,「かぐや姫の物語」でしょうか.いや,全く正月という事実とは関係ありませんが…….しかし,これは素晴らしい映画でした.近いうちに感想も書く予定です.

……取り敢えず,明日は,(正月不在のため)今日受け取った賀状への返信を認めようかな,と.

あれ?いつから寒中見舞いに変わるんだったっけ?