2015年4月11日土曜日

名前というアイコン

あまりにも散漫な文章だったのに,やたらとアクセス数が多いので,加筆修正しました(2015.4.13).

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最近,恐竜オタク界隈では,「ブロントサウルスの名前が復活するかも?」という話題が盛り上がっているらしい(伝聞).僕個人は,そもそも,この話題にさほど興味もないため,議論の起点になっている論文に目すら通していないので,議論の詳細は不明なんだけれど,界隈の反応を眺める限り,それなりに説得力のある論文のようです(てめーも古生物学の縁辺にいるならそのくらい読んでからコメントしろよ,というツッコミは想定内であり,ごもっともだけれど,本題はそこではないのでスルーします).

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本題の前に,前提知識として「分類」のことを少々.

分類っていうのは,非常に恣意的なものです.基本的には「これって別(新)種じゃね?」という主張と,学会の承認または反論を経ていることで,なんとなく決まっていきます(もちろん,定められた正規の手順を踏んでいるのは前提).なので,ひとつの分類体系というのは,基本的に仲良しグループ(学会)の内輪ネタみたいなものです.仲が悪いグループ同士で同じ個体に別な名前をつけていることすらあり得ます(この場合,学会の総体としては種の帰属が未定という扱いです).

また,それに加えて,分類,またはその結果生じた種というのは,分類に関わったことのない人が想像するよりもはるかに流動的なものです.今生きていて,DNA を使って検討ができるような現生の生物でも,分類は流動的なので,その形態のみ(しかも欠損部分が多い.軟組織は絶望的)だけから議論をする古生物の分類なんて,そもそも定常的な部分なんてほとんどありません.ゆるゆるです.

そして,一番重要なことですが,分類は科学ではありません(これ本当に重要).分類とは決められたルールに則った,議論と妥協と諦観の産物とも言えます(systematics の概念とか,ルールの詳細とかが気になる人は自分で調べてね).分類が科学じゃないのならなんなのか,というと一言で表すのは難しいのですが,これでも(古生物の)分類に関わった経験がある人間としては「ゲームである」と言っておきます.他の偉大な先生方のいう「(人間の)本能」であるとか,「趣味」とかの言い方も好きです.

(もちろん,上記は「わかりやすい」ことを目的として書いた以上,正確さや真実を犠牲にしていることを申し上げておきます)

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本題.

というわけで,ブロントサウルスにまつわる騒動の件です.

ブロントサウルスという名前が広く親しまれていた時代の記憶と,ある時期から「最近の研究ではアパトサウルスと同じであることがわかった」のお題目とともに図鑑や本から消え失せてしまったという記憶とを持っている世代の人(いま 30 代以上の恐竜好き)にとって,「ブロントサウルスという名称の復活」は,ある程度,興味深いニュースなのだろうと思います.しかし,そこまで大騒ぎするようなニュースであるとも思えないのに,一部のガチなマニアを超えて,ライトな恐竜好きである一般の人まで巻き込んで大騒ぎになっている様子は,僕には,やや大袈裟に感じるのです.特に,今回の論文では,新たに新個体が見つかったというわけでもなく,「既存の個体をたくさん調べたらこうなりました」という(多分に語弊があるけれど)労力がかかるわりに地味な分類の研究である当該論文に対して,ニュースをみた恐竜好きの反響が異常なまでに大きいのです.

以前,「トリケラトップスとトロサウルスが同種である」という論旨の論文が出たときにも(過剰な大反響という意味で)今回と似た様な印象を持ったのですが,この 2 つのニュースの共通点を見てみると,どうやら恐竜が好きな人たちにとって「恐竜の名前」というのが,なによりも重要なアイコンであるらしいと思い当たります(例えば,日本で未記載の恐竜が発見されたというような,よりセンセイショナルなニュースと比べても,この 2 つの "名前についての" ニュースは明らかに大きく取り上げられています).この辺の感覚は,古生物学にどっぷりな僕にはちょっとよくわからないところです.

古生物(学)に一定の専門性をもつ僕らからすると,とある標本が新種記載されて新しい名前がついたあとに,分類が見直されて既存の別種に組み込まれたとしても,その標本自体の学術的な価値が変化するわけではないので(正確にいうと,学術的には完模式標本ではなくなる [*]),(古)生物学を行ううえでなんの変化もないと考えます.もちろん,今回のように,元々,単一の種だと考えられていた標本群を再検討した結果,複数の種に分割された,という場合でも,"名前" という点にはあんまり注目しません.それは,言うまでもなく(古)生物学が「名前をつける」ための学問ではなく,標本(群)から様々な情報を読み取る学問だからです(もちろん,それだけじゃないのですが).

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[*] 完模式標本:新しい学名を提唱したときに記載の根拠となった標本のこと.ちょっと違うけれど,その種ではじめて見つかった個体だと思ってもらえれば良いかと.

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今回の論文で言えば,どういう標本(群)を用いて,どういう検討をしたことで,どういう結果が出て,その結果のどういう点を根拠にして分類が大きく書き換わったのか,というのが古生物学的に,古生物分類的に,意味があるところであって,それに付随して生じた「ブロントサウルス」の名称の復活はどうでもいい事象だと言い切れます.

この,僕らと一般の古生物ファンとの差異は,どこから生まれるのか?もっというと,古生物に興味がある人にとって,古生物学的に重要な点である論文の骨子ではなく,なぜ,どうでもいい "名前の問題" が重要であるかのように反応するのでしょうか?

その鍵は,人と古生物(学)との間の距離感にあるように思います.

古生物学をやっているわけではない古生物が好きな人は,化石を使って研究をするわけでも,研究の最先端に追いつくために論文を乱読するわけでも,場合によっては標本に実際に触れるわけでもないのでしょう [**].残念ながら,多くの古生物好きたちが触れられる「古生物」とは,古生物学の成果の上辺をなぞった本に書かれる知識や,カタログに載った化石の写真,そのカタログ上の記載文なのでしょう(もっとぶっちゃけて言えば,標本の写真や記載なんて読んでもいなくて,図鑑の復元画と体長なんかのデータ群なのでしょう).だからこそ,古生物ファン層にとっては,自分たちが容易に触れることのできる部分である,その古生物のアイコン,つまり,名前や絵(もちろん,化石の写真ではなく,肉のついた色とりどりのアレ)が大事になってくるのではないかと思います.

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[**] 好きな対象が,今回のように恐竜だったら,普通の人は,まず触れることができないと思います.広義の古生物学関係者であり,恐竜研究者の友人知人が多い僕でも,実際に恐竜の標本に触れた経験はかなり少ないです.

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この辺,僕らが「怪獣図鑑」を読んでいる感覚に近いのではないかと思います(「恐竜=怪獣」というアナログの話は,もともと oanus 博士の受け売り).怪獣は実在しないので,僕らが触れられるのは,その怪獣が戦っている映像や,コロタン文庫とかの怪獣図鑑の乏しい設定資料しかありません.それしかないのだから,ひたすらそれをなぞるしかないのです.残念ながら,多くの一般人は,実際の着ぐるみや設定資料,ましてや存在しない怪獣そのものには触れられないのだから,なおさらです.

古生物学に興味があるとか,古生物の形が好きとか,順当な興味からスタートした興味であっても,古生物(学)との距離が縮まらない限りは,古生物学の本来の面白さに触れることはできません.しかし,はじめに「面白そう」と思ったときの情動が,実際に古生物学にまで至ることはなかなかありません.結果,多くの古生物好きが,実物に触れるための努力を放棄して,実物に触れたくても触れられないけれど安易に知りたいという歪つな欲求を募らせて,たくさんの恐竜の名前を覚えたり,図鑑の記述を覚えたり,所蔵博物館の名前や標本番号を覚えたり,という間違った方向の努力に昇華してしまうというのは,なんとも皮肉なことです(これらのマニアの諸症状は実際にあった例です).なにしろ,図鑑のデータを覚える作業は学問的にも,学問に進むうえでの過程としても,ほとんど役に立たないのだから……(参考: http://sonicch.com/archives/40637699.html ).

ここで重要だと思うのは「恐竜が好きだから恐竜のことを知りたい」という子供に自然発生する情動をいかに学問の俎上に導くのか,というところなのですが,それはまた,別の話(この辺の話も,そろそろ書きたいけれど,また,今度).